Aのつぶやき−−穂村弘著『短歌の友人』

穂村弘さんの新しい評論集『短歌の友人』を、恵投たまわってすぐに開いた。で、びっくりしたんです。そのまま閉じたのは、なぜだったか。

今朝、どういうわけか珍しいことに暗いうちから目が覚めて、本を漁っているうちに、「友人」にふたたび出会い、またまた同じ箇所で、目がとどまりました。このあいだ、パタンと本を閉じてしまったのは、ホムラくんのハダカを見たからだった・・・・


  ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはりけり     斎藤茂吉
  味噌汁は尊かりけりうつせみのこの世の限り飲まむとおもへば       同


この茂吉の歌を、穂村さんは「生のかけがえのなさの感受である。これらの歌の背後には、〈私〉の生がただ一回きりの、他人と交換することのできない、限りなく有り難いものだという意識がある」と言うんですねー。
どうした、穂村さん、道徳の先生みたい。「生のかけがえのなさ」とか「限りなく有り難い」とか、う〜〜ん、、、


  荒川の水門に来て見ゆるもの聞こゆるものを吾は楽しむ          同


この歌を、「〈敬虔な判断停止〉の感覚」だと言うのです。「生を限りなく豊かなもの、「有り難い」ものとして感受する心が、〈私〉の中でこの(敬虔な判断停止)に結びついている」。
こんどは「敬虔」という語彙。

どうして、こんな背中がむずがゆくなるような語彙をつかわなくちゃいけないのかしら。意外に精神主義だったんですね〜。

「茂吉の歌では、〈敬虔な判断停止〉がむしろ微笑ましい印象を与えているのだが、その微笑ましさの底にはやはり危険なものが含まれている」・・・脳内茂吉というコトバが浮かんできます。


三日会わずんば、と言いますからね、本をひっくり返して、この文章を書いた年を確かめました。二〇〇一年頃のようです。
七年たちました。きっとたくましい筋肉がついていることでしょう。



                          
                                               (オリジナル)