歌の出会い

 出会うということは、難しい。それは、神さまの玉突き遊びのようなものである。さまざまな偶然が一致して、同じ時間と空間を共有しなければこの世の人との出会いはないが、しかし鼻面つき合わせて十年つき合ったって、出会わないままであることもしばしばなのである。いやむしろ、その方が多いのではあるまいか。
 わたしは、二十四歳の夏、石田比呂志に出会って、作歌を始めた。出会ったといっていい。どうして出会うことができたのだろうと思う。
 当時わたしは、地方公務員として児童相談所で心理判定員を勤めて二年目だった。いまもなおそうだが、地方公務員は、女性の職としてはそう悪くない。しかも専門職であったので、知識欲は満たされるし、勉強しようと思えばいくらでもすることはある。田舎のお役所気分は、のんびりしていてなかなかよかった。その前に、一年ほど出版関係の民間企業にいたので、公務員がどれほど勤めやすいか、よくわかっていた。
 にも関わらず、まあここも五年くらいは居れるだろうけど・・・と、先が読めてつまらない気持ちであった。



  労働組合社会主義も要するに男にてあらねばつまらなし



 社会主義共産主義がまだ未来に希望を感じさせていたころであって、あるとき労働組合の組織を覗いてみた。一回、組合の大会とやらに参加して、わかってしまったのである 結局どこに行っても、網の目のように張りめぐらされたシステムが、わたしを押え込もうとしているのであった。
 もちろん、結婚などというものに期待は全くない。中学生のころから、結婚なんて仕方なくてするものだと思っていた。だから二十五歳まではしたいことやって遊んでおこう、あとは墓場だ、と思うような子供であった。だいたいそもそも、自分の親や周囲の夫婦を見ていながら、女性が結婚に憧れるとか、結婚生活に夢をもつとかいう方が、理解し難いというべきではないか。



  いくたびも家族の網を投げられて娶られむとすあかつきの夢



 一対一でつき合っているうちはまだしも、いざ結婚などということになると、親族や親や係累がこの世のシステムを背負って、いやおうなしに迫ってくる。情愛のかげに隠れていた「家」とか「世間の慣習」とかがむき出しに現れてくる。右の歌はのちに作ったものだけれども、まさに投網をかけられたような気がするのである。
 実際に二十四五という歳を迎えてみると、さすがに中学生のころのような投げやりな享楽主義をうそぶいているわけにもいかず、その後の人生を墓場ですごす覚悟もできず、かといって生きる目的も夢もなく、アナーキーな気分であった。
 たいした文学少女でもなく、人並みに読書が好きというくらいであったわたしが、ものを書いてみたいと本気で思うようになったのも、そういう気分であったからなのだろう。ものを書く世界なら、上から押し込めるような圧迫もないかとも、思ったのである。
 石田比呂志は、およそその一年前、十二年間の東京生活に見切りをつけ、田舎に帰ってきており、わたしの勤務地の近くに住んでいた。歌人になるべく志を立てて上京したが、齢四十をすぎ、帰りなんいざ、と九州の古巣で、かつての歌友達と歌誌『牙』を復刊したばかりのときであった。
 初めて行った歌会が終わったあと、こっちいらっしゃいと手招きされて、そばに行き、話をした。熱心に話してくれるのを聞きながら、こんな年齢までこころの核に純なものを保ちつづけている人は珍しい、とふとひらめくように思ったことは忘れない。考えてみれば、今のわたしの年齢くらいであったのだけど、うんとおじさんに見えたし、それまで見てきたおじさんたちの世間智にまみれた俗っぽさのないことが、珍しかった。世間なんてそんなもんさと思いかかっているところに、こう生き方も可能なのだという見本を見た思いがした。世間的な価値を一段下において、歌のために尽くすというか、生活の規矩がすべて歌によって成り立っているというか、私利私欲をはなれて「歌」におつかえするとでもいうようなこころのありようを見て、それまでの目的のないつまらない気分が吹き飛んでいくような予感をもったのである。
 そこでわたしは、歌を始めた。ほどなく、恋にも陥った。
 わたしは、自分がどうして恋におちたのか、反芻してみるけれども、よくわからない。尊敬するということと、恋におちるということとは、別のことである。向こうの側にしてみても、妻はいるし、四十を過ぎた男であるから、二十四五の女性とは考えも物の見方も異なる。ましてや、『牙』を復刊したばかりであった。わたしの親は泣くし、うろたえるし、周囲の状況がひどくなればなるほど、しかし結びつこうとする決心は固くなっていって、ある日二人で熊本へ出奔したのである。



  樹のごとく抱き合いつつおのずから躰の透きてゆくことなけむ
  唇をよせて言葉を放てどもわたしとあなたはわたしとあなた
  地獄あらば地獄の底を行けという水のほとりの鶏頭の花  
  家出づるわがため母の炊きくれし赤きご飯のかなしかりけり 
  厚雲のうえの太陽さむざむと如何なる時間われにあるらむ



 ところで、歌に出会ったのは、恋におちる少し前のことだったと思う。石田比呂志からの手紙の末尾に、自分の歌数首と、斎藤茂吉の「赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり」という歌が記してあった。これはじつはわたし宛の手紙ではなく、その頃歌を見てもらっていた母にあててきたものだったが、この「赤茄子」の歌を見たとき、ああ歌とはこんなものか、これなら全体重をかけてやる甲斐がある、そう思った。
 歌を始めて、半年くらい経っていた。特別に歌が好きで始めたわけではない。むしろ母が趣味でやるような詩型であるから古くさいものだと思っていた。わたしが作るからにはそんな趣味的な古くさいものは作らないという気があったし、だいたい社会的ルールなどにはことごとく反抗すべしという1970年前後のカウンターカルチャー時代に青春を過ごしたものであるから、短歌が五七五七七であることからして気にいらなかった。勝手な意欲にしたがって、できるだけ口語で、三十一字程度の一行の詩だとみなして歌を作っていた。
 石田比呂志に見てもらうと、あんまり手も入れないで、選歌してくれる。そんなに酷評もされなかったし、わたしも意気昂然としてはいた。それでも批評の口ぶりの背後に「歌はこんなもんじゃないよ」という批判が感じ取れて、それにこころの底で抵抗しつつ作っていた。
 それでも、いまひとつ歌というものがどういうものであるのかは曖昧で、よくつかめない。いつやめても構わないもののような気がする。
 寺山修司の詩もエッセイも好きで読んでいたが、短歌は「『マッチするつかのま海に霧深し・・・』なに、これのどこがいいの」という具合であったし、同じ若い女性の歌集だからというのであろう、石田比呂志は一番初めに河野裕子の歌集『森のやうに獣のやうに』を貸してもくれたし、もちろん石田比呂志自身の歌集も分けてもらって読んだが、出会わないということは仕方のないことである。 わたしは、茂吉の「赤茄子」の歌に出会って始めて、歌というものの奥深さと広さを感受できた。小さなかたちであるにも関わらず、すべてを投入する価値のあるものであると理解できた。いったいわたしは、茂吉のその歌の何に触れたのか、ときどき考えてみることがある。哀楽の抒情ではなく、なにか意識の世界が取り出されているところに衝撃を受けたような気がする。
 なべての出会いとはすなわち、自らに出会うことである。「赤茄子」の歌でわたしが歌に出会ったということは、わたしの掘りあげていくべき歌のかたちがそこに暗示されているということなのだ。
 熊本に移住して一息ついたころ、岩波文庫の『斎藤茂吉歌集』を毎日ひらいて、ともかく読了しようと思った。必ずしもそれほどおもしろい歌ばかりが並んでいるわけではなかったけれども、ひとたび「赤茄子」の歌で強烈な体験をしたあとには、おのずとこちらも謙虚になる。好きな歌に丸をつけたり、ノートに書き取ったりしながら読んでいった。文語定型でこれほどまでの表現ができるのならば、ともかくいらぬ抵抗や反抗はやめて、すべてを受け入れ自分の身で消化し、批判はそれからあとで良いではないか、と思うことにした。
 茂吉の歌を模倣しようと思った。それから語彙ノートも作った。茂吉の歌のなかで、わたしが歌に使ったことのない言葉を全部、分類わけしつつ拾い出していった。これは、歌を始めるにあたって偶然手に入れた、岡井隆の『現代短歌入門ーー危機歌学の試み』に書いてある勉強の仕方を、さっそく実行に移したのである。
 それで、わたしの歌はたちまちのうちに、古びたおとなしやかな「なり・けり・かも」の歌になってしまったのであった。




                                            (NHK短歌