国に棄てられた兵士たち・・・奥村和一・酒井誠著『わたしは『蟻の兵隊』だった』岩波ジュニア文庫

この夏(注・2006年)、東京では、七月末に封切られたドキュメンタリー映画蟻の兵隊』がしずかなロングランを続けている。中国山西省残留問題に関わる裁判で、最高裁に上告した最後の控訴人五人のうちの一人、今年八十二歳になる元残留兵奥村和一さんを追った、じつに地味な映画である。


その図書版が本書で、元残留兵奥村和一の人生と山西省残留問題の全貌とを、長年の友人酒井誠がインタビューし、最後に『蟻の兵隊』の監督池谷薫をまじえて、映画撮影の裏話も語るというものである。


昭和二〇年八月、二十歳の青年だった奥村和一は、幹部候補生教育中に敗戦の日を迎えた。しかし、終戦詔勅もよく聴き取れず、ポツダム宣言の受諾も知らされないまま兵士たちは、アメリカには負けたが中国とはまだ戦闘中であると信じて、翌年二月まで平素通り銃剣術や斥候教育を受けていた。


ある日、軍司令部から「天皇制護持と祖国復興」のための特務団編成の命令が下る。奥村さんは残留をせざるを得なかった。残留日本軍二六〇〇名は、中国国民党系の軍閥に合流し、その後四年間、共産党軍と激しい戦闘を繰り返したのである。奥村さんは昭和二十三年の戦闘で、重傷を負い、後遺症が残った。戦友は、傍らで「天皇陛下万歳!」と叫びながら死んでいった。


昭和二十三年といえば、国内では前年五月に新憲法が施行され、人々は新しい未来に向かって生き始めていたときである。天皇人間宣言は、昭和二十一年年頭のことであった。


残留軍は昭和二十四年に全滅、約五五〇人が戦死、七〇〇人以上が捕虜となったという。ようやく敗戦九年後、奥村さんは日本に帰還したがすでに軍籍なく、昭和二十一年三月の時点で現地解除されていたことを知る。残留したものは「逃亡兵」であり、自らの意志で残って、勝手に戦ったということにされていた。


当時の第一軍司令官でありA級戦犯でもあった澄田●(らい)四郎が、山西省軍閥閻錫山(えん しゃくざん)と密約をかわし、自らの責任追及逃れのために「祖国復興」を名目に残留を画策したのだ。閻錫山のもとで作戦指導書を作っていた澄田は、残留軍全滅二ヶ月前に身をやつして帰国、国会にまったく裏腹の供述をした。この”売軍行為”によって、奥村和一ら残留兵二六〇〇名は国から棄てられたのである。


記憶の底に過去を押しやってきた人生の終盤、奥村さんは、元残留兵たちの書いた『元第一軍特務団実録』に出会う。以来、この残留問題についての徹底的な史料調査をはじめた。中国にまで通って史料を探索する奥村の真実追究の魄力を映画は映し出すが、その過程で初年兵教育の仕上げで人殺しをしたことを告白する。


震えながら銃剣で無我夢中で突き刺しようやく心臓を貫いたとき、一人前の兵士になったという「達成感」と「喜び」を確かに味わった。だが、それが日常生活に戻ったとき、ことごとにつけてじわじわと痛みになってよみがえってくる。これは誰にも妻にも言えないことだった。


映画撮影は、その現場に立ち戻ってみる機会となるが、そこで奥村さんはいまだに体の奥に「日本兵」が潜んでいることを思い知らされた。初年兵教育で殺したのは農民ではなく、共産軍と内通したと疑われる警備隊員だと知ったとき、話しに来てくれた中国人に「責任はそちらにある」と追求しはじめたのである。


初年兵教育の仕上げとしての組織的な殺人は、そういう問題ではない。ある部隊は、りんとして立つ女学生をその犠牲にしたし、別の部隊では捕虜をそれに当てたのである。元残留兵の訴訟仲間も、道案内の農民を無惨なやり方で殺していた。


映画での奥村さんは、さらに日本兵に強姦輪姦され慰安婦にされていた老婦人にあって話をしているうちに、中国に対して卑屈になって詫びるだけでは何の解決にもならない。もっと戦争そのものを知り、逃げずに加害者としての経験をも身近なものに語り継いでいかなければならないと考えるようになるのである。


この著書と共に、ぜひ映画も観ていただきたい。九州ではまだ上映予定がないようである。熊本がさきがけてどこかで上映しないものか。



                                   (熊日新聞阿木津英が読む」2006.9)


【のちの記】 戦争関係で書いたものを、取り出してみた。続くのは、重苦しいかも知れないが。この、四、五年、戦争加害者の発言が目につくようになった。井上俊夫さんの著書を初めて読んだときには、ほんとうに衝撃を受けたものだったが、あれは誰も言わなかっただけ、わたしたちが知らなかっただけ、のことであったのだ。