復活、あんてな !  まず、この文大統領の文章をご紹介。

あきつ・あんてな、漂流してましたが、新しくリニューアルです。

だれが読んでくれるともない「あんてな」を、ひっそりと始めます。

というのも、お隣韓国のムン・ジェイン大統領がドイツの新聞に寄稿したという文章を読んで、ぜひご紹介したいと思ったから。

【ソウル聯合ニュース】韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領は10日の就任2周年に合わせ、ドイツ紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)に7日までに、「平凡さの偉大さ 新たな世界秩序を考えて」と題する文章を寄稿した。

 

じつは五月三日、青山に、ワセダ・クロニクル主催の会に行ってきたのです。韓国のメディアが政治権力の介入からどのように抵抗し、立ち上がったか、という映画「共犯者たち」を見て、ディスカッションを聞きました。

 

映画は、日本のNHKみたいなKBCに権力介入、社長更迭劇から始まるんですが、社員が体張ってストライキするし、もみ合うし、抵抗するんですよね。百日ストなんかやってる。新体制からはじき出された元社員たちが市民メディアを作って、しつこくしつこくインタビューに行く。今の日本と同じように国粋主義みたいなかつての朴政権信奉者みたいな右翼もいるなかで、とにかくしつこく行く。

 

どうしてあそこまで抵抗できるのか。わたしたちはストライキなんかもう久しく見たことがないでしょう。どうしても解せない気持ちが残ったけど、いま思うと、韓国は政治権力の交替が何度もあったんですね。

 

以下は、ムン・ジェイン大統領の「平凡さの偉大さ 新たな世界秩序を考えて」

とても長いので、全文は、リンク先で読んでください。いつまでも読めるかどうかわからないので、以下、ここに少し引用しておきます。

https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190505000700882

ムン・ジェイン大統領「平凡さの偉大さ 新たな世界秩序を考えて」 

1 光州

 韓国南西部の光州は韓国の現代史を象徴する都市です。韓国人は光州に心の負い目があり、今でも多くの韓国人が光州のことを考え、絶えず自らが正義に反していないかどうかを問い返しています。

 1980年春、韓国は大学生たちの民主化運動で熱気に包まれました。朴正熙(パク・チョンヒ)政権の独裁体制、維新体制は幕を下ろしましたが、新軍部勢力が政権を掌握しつつありました。新軍部はクーデターを起こし、非常戒厳令を発動して政治家の逮捕、政治活動の禁止、大学の休校、集会・デモの禁止、報道の事前検閲、布告令違反者の令状なしでの逮捕など、過酷な独裁を始めました。

 ソウル駅に集まった大学生たちは新軍部の武力による鎮圧を懸念し、撤収を決定しました。このとき、光州の民主化要求はさらに燃え上がりました。空輸部隊を投入した新軍部は市民たちを相手に虐殺を行い、国家の暴力で数多くの市民が死亡しました。5月18日に落ち始めた光州の花びらは5月27日、空輸部隊の全羅南道庁鎮圧で最後の花びらまでも散ることになりました。

 光州の悲劇は凄絶(せいぜつ)な死とともに幕を下ろしました。しかし、韓国人に二つの自覚と一つの義務を残したのです。一つ目の自覚は、国家の暴力に立ち向かったのが最も平凡な人々だったということです。暴力の怖さに打ち勝ち、勇気を出したのは労働者や農民、運転士や従業員、高校生たちでした。死亡者の大半も、そうした人々でした。

 二つ目の自覚は、国家の暴力の前でも市民たちは強い自制力で秩序を維持したということです。抗争が続いていた間、ただの一度も略奪や盗みがなかったということは、その後の韓国の民主化過程における自負心、行動指針となりました。道徳的な行動こそ、不正な権力に対抗して平凡な人々が見せることのできる最も偉大な行動だということを、韓国人は知っています。道徳的な勝利は時間がかかるように思えますが、真実で世の中を変える一番早い方法なのです。

 残された義務は、光州の真実を伝えることでした。光州に加えられた国家の暴力を暴露し、隠された真実を明らかにすることがすなわち、韓国の民主化運動でした。私も南部の釜山で弁護士として働きながら、光州のことを積極的に伝えようとしました。多くの若者が命を捧げて絶えず光州をよみがえらせた末に、韓国の民主主義は訪れ、光州は民主化の聖地となったのです。

 孤独だった光州を一番先に世の中に伝えた人が、ドイツ第1公共放送の日本駐在の特派員だったユルゲン・ヒンツペーター記者だったという事実は非常に意義深いことです。韓国人はヒンツペーター氏に感謝しています。故人の意向により、同氏の遺品は2016年5月、光州の五・一八墓域に安置されました。

2 ろうそく革命、再び光州

 私が1980年の光州について振り返ったのは、今の光州について話したかったためです。

 2016年、厳しい冬の寒波の中で行われた韓国のろうそく革命は、「国らしい国」とは果たして何であるかを問いながら始まりました。韓国では1997年のアジア通貨危機と2008年のリーマン・ショックを経て、経済不平等と二極化が進みました。金融と資本の力はより強くなり、非正規雇用労働者の量産で労働環境は悪化しました。そんな中、特権階層の不正・腐敗は国民に一層大きな喪失感を与えました。ついには韓国の南方沖、珍島の孟骨水道を航海していた旅客船セウォル号でかけがえのない子どもたちが救助も受けられずに亡くなり、韓国の国民は悲しみを胸に抱いたまま、自ら新たな道を探し始めました。

 ろうそく革命は親と子が一緒に、母親とベビーカーの幼児が一緒に、生徒と先生が一緒に、労働者と企業家が一緒に広場の冷たい地面を温めながら、数カ月にわたり全国で続きました。ただの一度も暴力を振るうことなく、韓国の国民は2017年3月、憲法的価値に背いた権力を権力の座から引きずり下ろしました。最も平凡な人々が、一番平和的な方法で民主主義を守ったのです。1980年の光州が、2017年のろうそく革命で復活したのです。私は、韓国のろうそく革命について歌と公演を織り交ぜた「光の祭り」と表現し、高いレベルの民主主義意識を示したと絶賛したドイツの報道をありがたい気持ちで記憶しています。

 今の韓国政府はろうそく革命の願いによって誕生した政府です。私は「正義のある国、公正な国」を願う国民の気持ちを片時も忘れていません。平凡な人々が公正に、良い職場で働き、正義のある国の責任と保護の下で自分の夢を広げられる国が、ろうそく革命の望む国だと信じています。

 平凡な人々の日常が幸せであるとき、国の持続可能な発展も可能になります。包容国家とは、互いが互いの力になりながら国民一人一人と国全体が一緒に成長し、その成果を等しく享受する国です。

 

(中略)

  

3 平凡な人々の世界

 韓国ではちょうど100年前、平凡な人々が力を合わせて新たな時代を開きました。日帝(日本)による植民地支配を受けていた人々が、1919年3月1日から独立万歳運動を始めました。202万人、当時の人口の10%が参加した大規模な抗争でした。木こり、妓生、視覚障害者、鉱員、作男、名前も知られていない平凡な人々が先頭に立ちました。

 韓国で三・一独立運動が重要である理由は二つです。一つはこの運動を通じて市民意識が芽生えたことです。一人一人に国民主権と自由と平等、平和に向けた熱望が生まれ、これによって階層、地域、性別、宗教の壁を超えました。一人一人が王政の百姓から国民に生まれ変わりました。そして大韓民国臨時政府を樹立しました。

 

(中略)

 100年前、植民地の抑圧と差別に立ち向かい闘った平凡な人々が、民主共和国の時代を開きました。自由と民主、平和と平等を成し遂げようとする熱望は100年がたった今なお強いのです。国が国らしく存在できないとき、三・一独立運動の精神はいつでもよみがえりました。

4 平凡さのための平和

 東洋には「乱世に英雄が生まれる」という言葉があります。しかし、乱世こそ平凡な人々が自分の人生を自ら開いていくことのできない時代です。英雄は生まれますが、平凡な人々は不幸に陥る時代です。

 中国の古典「史記」の「孫子呉起列伝」にこんな一節があります。「人曰、子卒也、而将軍自吮其疽、何哭為」。人いわく「息子が卒兵なのに将軍が自ら息子の腫れ物の膿を口で吸い出してくれた。どうして泣いているのですか」。泣く必要はないのにどうして泣いているのかという意味です。母親は、息子が将軍の行動に感激し、戦場で必死に戦って死ぬのではないかと思って泣いたのです。「史記」にはその母親の夫も同じことを経験して必死に戦い、死んだと記されています。

 「史記」の著者の司馬遷は将軍・呉起の立派な行動を伝えようとしたのですが、この話は夫を失った妻のふびんな境遇が行間に潜んでいます。私たちの好きな英雄譚(たん)には、常に自らの運命を奪われた平凡な人々の悲劇が隠されているのです。

 韓国の分断の歴史にも、平凡な人々の涙と血が染みついています。分断は個人の人生と思考を反目に慣れさせました。分断は既得権を守る方法、政治的な反対者を葬る方法、特権と反則を許す方法として利用されました。平凡な人々は分断という「乱世」の間、自分の運命を自ら決められませんでした。思想と表現、良心の自由を抑圧されました。自己検閲を当然のものと考え、不条理に慣れていきました。

 この長きにわたる矛盾した状況を変えてみようという熱望は、韓国人がろうそくを掲げた理由の一つでした。民主主義を守ることで平和を呼び込もうとしたのです。ろうそくが平和に向かう道を照らさなかったなら、韓国は今も平和に向けて一歩も踏み出せずにいたでしょう。ろうそく革命の英雄は、極めて平凡な人々の集団的な力でした。「乱世に英雄が生まれる」という東洋の古言は「平凡な力が乱世を克服する」という言葉に変えるべきでしょう。

 私は、季節が変わりゆくように人間社会の出来事にも過程があると信じています。東・西ドイツ間の鉄のカーテンが欧州を貫く巨大な生命の帯「グリーンベルト」に完全に変貌したように、朝鮮半島の平和が東西を横切る非武装地帯(DMZ)にとどまらず南北に拡大し、朝鮮半島を超えて北東アジア、欧州まで広がっていくことを期待しています。朝鮮半島全域にわたり長く固着している冷戦的な葛藤と分裂、争いの体制が根本的に解体され、平和と共存、協力と繁栄の新秩序に置き換わることを目指しています。韓国ではこれを「新朝鮮半島体制」と名付けました。

 「新朝鮮半島体制」は朝鮮半島地政学的大転換を意味します。朝鮮半島地政学的に大陸勢力と海洋勢力が衝突する断層線にあります。欧州のバルカン半島と似ています。このため、歴史的にたびたび戦争の受難を経験しました。特に、朝鮮半島の南と北が非武装地帯を境界に分断されて以降、韓国は事実上、大陸とのつながりが断たれた「島のような存在」でした。

 朝鮮半島に新たな秩序を築くことは、島と大陸をつなぐ橋を築くことです。昨年4月、私は南北軍事境界線がある板門店北朝鮮金正恩キム・ジョンウン)国務委員長(朝鮮労働党委員長)と会いました。北朝鮮の最高指導者が朝鮮戦争以来で初めて、韓国側の地へ越えてきた歴史的な瞬間でした。私たちはそこで、互いに対する軍事的な敵対行為をやめようと約束しました。

 その最初の措置として、非武装地帯の監視所の一部を撤去し、周辺地域の地雷撤去作業も実施しました。非武装地帯内に南と北をつなぐ道路が敷かれ、13柱の遺骨も発掘され故国に戻りました。こうした作業を進めていたところ、昨年11月にはそれぞれ南側と北側を出発した軍人が朝鮮戦争の最後の激戦地だった矢じり高地で鉢合わせする出来事がありました。彼らは互いに銃口を下ろして握手を交わし、予想外の遭遇を楽しみました。朝鮮戦争の休戦協定締結から65年にして、このように非武装地帯に春が訪れたのです。

 朝鮮半島の春はドイツのベルリンから始まりました。私は2017年7月、金大中(キム・デジュン)元大統領による2000年の「ベルリン宣言」に続き、ろうそく革命の熱望を込めてベルリンで朝鮮半島の新たな平和構想を語りました。当時、多くの人々は単なる希望事項にすぎないと考えました。朝鮮半島の冬はなかなか去る様子はなく、北朝鮮は核実験とミサイル発射を繰り返して危機を高めていました。周辺国も制裁を次第に強化し、「4月危機説」「9月危機説」が飛び交い、韓国人は本当に戦争が起きるのではと心配しました。

 ドイツのウィリー・ブラント元首相は「一歩も進まないより、小さな一歩でも進む方がいい」と言いました。私の考えも同じでした。何かを始めなければ、国民の熱望をかなえることはできませんでした。「小さな夢を見てはいけない、それは人の心を動かす力がない」というゲーテの文章を思い出しました。冬を抜けて春の新芽を芽生えさせるには、朝鮮半島の非核化と恒久的平和という大きな夢を語る必要がありました。国民らと一緒に成し遂げられる、大きな夢でなければならなかったのです。

 北朝鮮は2018年1月の新年の辞で南北関係を改善する用意があると表明し、韓国の大きな夢に応えてきました。続けて、平昌冬季五輪への参加の意向を伝えてきました。周辺国と欧州の国々までもが朝鮮半島の雪解けに支持と声援を送ってくれました。韓国の国民は、平昌五輪を平和五輪にするため心を合わせました。

 「ベルリン宣言」で、私は北朝鮮に「簡単なことからやろう」と呼び掛け、四つのことを提案しました。平昌五輪参加、朝鮮戦争などで生き別れになった南北離散家族の再会事業、互いに対する敵対行為の中断、そして南北間の対話と接触の再開です。驚いたことに、この四つは2年が過ぎた今、全て現実のものになりました。昨年2月の平昌冬季五輪の開会式で、南北の代表選手団は世界の人々が見つめる中で朝鮮半島旗(統一旗)を掲げて合同入場しました。離散家族が再会し、今やいつでも映像を通じて再会できるシステムを備えています。何よりも朝鮮半島の空と海、陸地で銃声は消えました。私たちは北朝鮮の地、開城に共同連絡事務所を開設し、日常的に互いが対話し、接触するチャンネルをつくりました。朝鮮半島の春が、こうしてにわかに近づいてきたのです。

 これまで私が残念に思っていたことは、韓国の国民が休戦ラインの向こうをもはや想像できないことでした。朝鮮半島で南と北が和解し、鉄道を敷き、人と物が行き交うようになれば、韓国は「島」ではなく海洋から大陸に進出するための拠点、大陸から海洋に出ていくための関門になります。平凡な人々の想像力が広がるということはすなわち、理念から解放されるという意味でもあります。国民の想像力も、生活の領域も、思考の範囲もはるかに広がり、これまで耐えねばならなかった分断の痛みを癒やせるでしょう。

 今や南北の問題は理念や政治に悪用されてはならず、平凡な国民の生命と生存の問題に広げていかねばなりません。南と北はともに生きていくべき「生命共同体」です。人が行き来できない状況でも病虫害が発生し、山火事が起こります。目に見えない海上の境界は操業権を脅かしたり、予想外の国境侵犯で漁民の運命を変えたりします。こうした全てのことを元に戻すことが、まさに恒久的平和なのです。政治的、外交的な平和を超え、平凡な人々の生活のための平和です。

 「新朝鮮半島体制」は受動的な冷戦秩序から能動的な平和秩序への転換を意味します。かつて、韓国国民は日帝の占領と冷戦により自身の未来を決められませんでした。しかし今、自ら運命を切り開こうとしています。平凡な人々が自分の運命の主人になるのです。

 朝鮮半島と北東アジアの既存秩序は、第2次世界大戦の終戦と同時に北東アジアに植え付けられた「冷戦構造」と深く関わっています。戦後処理の過程で韓国人の意思とは異なり分断が決まり、悲劇的な戦争を経験せねばなりませんでした。このとき、韓米日の南方3角構図と、これに対応する北朝鮮と中ロの北方3角構図が暗黙のうちに定着することになりました。

 こうした冷戦構図は1970年代のデタント(緊張緩和)と1990年代のソ連解体、中国の市場経済導入でかなり解消されましたが、朝鮮半島でのみ、今なおそのままです。南北は分断されており、北朝鮮は米国、日本と正常な国交を結んでいません。こうした状況で、南北は昨年、「板門店宣言」と「平壌宣言」を通じて敵対行為の終息を宣言することで、恒久的な平和定着に向けた最初のボタンを掛けました。同時に、北朝鮮と米国は非核化問題とあわせて関係正常化のための対話を継続しています。朝米(米朝)が対話によって完全な非核化と国交を実現し、朝鮮戦争の休戦協定が平和協定に完全に置き換えられてはじめて冷戦体制は崩れ、朝鮮半島に新たな平和体制が築かれるでしょう。

 

(中略)

5 包容的世界秩序を目指して

 第2次世界大戦以降、欧州もやはり冷戦の渦中に飲み込まれていきました。各国の政府は新たな同盟戦略を模索しました。冷戦で分断されたドイツは平和を目指して大胆に前進し、欧州の変化をけん引しました。

 ベルリンの壁によって突如として生き別れになったドイツの45万人の市民らは統一と平和への願いを抱き、1963年6月、ブランデンブルク門前の西ドイツ側に集まりました。その年、ウィリー・ブラント西ベルリン市長はクリスマス期間に別れた家族や親戚に会えるようにするための交渉を提案しました。東方政策の始まりでした。東西ドイツが互いを競争と封鎖の対象ではなく、協力と共生の対象として見るようになりました。

 

(中略)

 欧州の事例から分かるように、国家間の関係において包容性は非常に重要です。国境と分野を超えて包容し、公正なチャンスと互恵的な協力を保障するとき、世界はともに豊かに暮らし、ともに発展することができます。しかし、戦後秩序の根幹である自由貿易主義と国際主義が顕著に弱まり、再び保護貿易主義と自国優先主義がうごめいています。こうした国際的な危機は、包容と協力の精神を消しつつあります。国際社会の一員としての各国の責任と規範を強調する協力の政治が切実に求められます。

 再び、平凡な人々が重要です。平凡な人々が変えられることは、国内問題に限られません。国家を変えれば、世界秩序も変えられます。平凡な全ての人々が国家運営を自身の権利、責任と考え、世界の運命を自身の運命と関連付けて考えるとき、新たな世界秩序は築かれるでしょう。平凡な人々が国境や人種、理念や宗教を超えて連帯し、協力するとき、世界は共に豊かに暮らす持続可能な発展を遂げるでしょう。

 社会的弱者をのけ者にせず、働いただけ対価を受け取り、安定した福祉で多数が成長の果実を享受する世界が、包容的世界です。すでに私たちは韓国や欧州、世界のあちこちで平凡な人々が包容によって成し遂げてきた成果を知っています。

 ドイツは自由な市場経済を追求する一方で、雇用不安、賃金格差、貧困、老後不安などさまざまな社会的リスクに対する保障を提供し、社会統合を果たしました。北欧の国々は多額のコストを伴う福祉制度が国の競争力を弱めないよう、絶え間ない教育投資を通じて国の革新力を保ちました。

 特定の国家や公共部門の努力だけで、気候変動のような地球全体の問題を解決することは不可能です。国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)は昨年、「地球温暖化1.5度報告書」を採択しました。気候の専門家らは、産業化以前に比べて地球の気温上昇を1.5度に抑えられれば、2度上がった場合と比較して1000万人の命を救うことができると見込みました。国際的な支援と協力により、全ての国が気候変動に共同で対応してこそ達成できる目標です。

 世界的に包容性を受け入れることも重要です。紀元前2000年から、アジアの国々は「治山治水」を成功的な国家運営の最初の徳目と見なしていました。「山と水を治める」という意味のこの言葉には、「自然を尊重する」という精神が込められています。木を育てて山崩れを防止し、水をせき止めておくよりも自然に流れるようにして洪水と干ばつの被害を減らそうとしました。人間と自然、開発と保全を分けて考えることはしませんでした。私は、これは世界が追求する持続可能な発展と通じるところがあると思います。

 しかし現在、なお多くの国が経済発展と環境保護を別のものと見なしています。先進国と開発途上国の間で、相手の立場に立って考える精神が必要です。私たちだけでなく未来の世代が一緒に生きていく地球のため、人間と自然が共に生きていく知恵と、平凡な人々が持つ包容の力を発揮するときです。そうすれば、新たな世界秩序と持続可能な発展という夢は現実のものになるでしょう。

 各国が包容性を強化して国家間の格差を減らし、国民の世界市民として考える力を養う必要があります。平凡な市民が成し遂げた欧州の統合と繁栄は、世界をよりよいものにしようとする人類に意志と勇気を与えてくれるでしょう。

6 平凡さの偉大さ

 平凡な人々が自分の人生を開いていけること、日常の中で希望を持ち続けられること、ここに新たな世界秩序があります。歴史書に全く出てこない人々、名前ではなく労働者、木こり、商人、学生といった一般名詞で登場する人々、こうした平凡な人々が一人一人、自分の名前で呼ばれなければなりません。世界も、国家も、「私」という1人で始まります。働いて夢を見る、日常を維持していく平凡さが世界を構成しているということを、私たちは認識する必要があります。

 そのためには、1人の人生が尊重されねばなりません。1人の人生の価値がどれだけ重要なのか自分でも理解する必要がありますが、歴史的に、文化的に再評価されるべきだと思います。自身の行動が周囲に影響を与えられるということ、またどんな行動が周囲に広がり、最終的にどんな結果をもたらし得るのかについて語り、記録に残さねばなりません。

 平凡さが偉大であるためには、自由と平等に劣らず正義と公正が保証されるべきです。人類の全ての話は「善事を勧め、悪事を懲らしめる」という平凡な真理を反すうします。東洋では「勧善懲悪」という四字熟語で表現します。この簡明な真実が正義と公正の始まりです。無限競争の時代が続いていますが、正義と公正がより普遍化した秩序となるべきです。

 正義と公正の中でのみ、平凡な人々が世界市民に成長できます。今はまだ何もかもが進んでいる最中のようですが、人類が歩んできた道に新たな世界秩序に対する解決策があります。東洋には「人は倉に穀物がいっぱい詰まっていれば礼節を知り、衣服や食物が満ち足りてこそ栄誉と恥辱を知る(倉廩実而知礼節、衣食足而知栄辱)」という古言があります。正義と公正によって世界は成長の果実を等しく分かち合えるようになり、これを通じて皆に権限が与えられ、義務が芽生え、責任が生じるでしょう。

 今、世界が危機だと捉えていることは平凡な人々が解決していくべきことです。これは一国では解決できない問題であり、1人の偉大な政治家の慧眼では成し遂げられないことです。苦しんでいる隣人を助け、ごみを減らし、自然を大切にする行動が積み重なっていくべきです。こうした行動を取る人が1人しかいなければ「何を変えられるだろう?」と懐疑的になるかもしれませんが、この小さな行動が積み重なれば流れが大きく変わります。

 そして結局、私たちは世界を守り、互いに分かち合いながら、平和な方法で世界を少しずつ変化させられるようになるでしょう。平凡な人々の日常がそうであるように、ゲーテが残した警句のように「急がずに、だが休まずに」。

*同寄稿文は韓国語の原文を聯合ニュースが翻訳したものです。