師弟関係・・・・内田樹の「器に合わせすぎては学びは起動しない」

武道でも何でも、長い年月をかけて熟達してゆくものすべてに通ずる、師匠と弟子の
関係。「そうだ! そのとおり!!」と膝を打ちました。


本当のものは、どこでも同じ。
何にも通ずる。


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http://gendai.ismedia.jp/articles/-/58?page=4
内田樹「器に合わせすぎては、学びは起動しないのです」
神戸女学院大学教授 内田樹


(略)


内田 それまでは、「先生の持っている知識や技術を教わりたいんです。お礼をするのでぜひ教えてください。お願いします」という人がいて、「うむ、それでは教えてやろう」という先生と出会う、それが師弟関係というものだとずっと思っていた。片方に教える技術や知識があり、それを教わりたいと思う人がいる。需要と供給が一致すると師弟関係が成立する。商取引の「等価交換」のようなものと理解していた。
(いまの教育も、短歌も、すべてが低レベル化し、つまらなくなっているのは、この「需要」の器に「供給」側が合わせようとしているから。メディア側も、「需要」を金科玉条にして「供給」側に要求してくる。)



 ところがそのとき、「教える」という行為はまず最初に「教えたい」という教える側の「おせっかい」から始まるんだということがわかった。「おせっかい」と言ってもいいし、「贈与」と言ってもいいけれど、とにかく先方が「ほしい」と言ってるわけじゃないことを「上げるよ」と押しつけるわけだから、ほんとうに「余計なお世話」なんだ。



 最初は、習いたい人なんていないんです。だって、その知識や技術がそもそも何の役に立つのか、そっちは知らないんだから。でも、合気道に限らず、技術や知識の伝承においては、それこそがすべての始まりなわけでしょう。マーケティングの語法で言えば、「ニーズがないところにサプライだけがある」というのが、実は「教える」という行為の始点なわけですよ。



 商品経済では通常、まず需要があって、それに応えるべく供給が生まれる。武道の場合も、「武道をやれば体が強くなる」「礼儀正しくなる」「喧嘩が強くなる」といった分かりやすい有用性を求めて習うという人もいることはいる。しかし、多くの場合はそうではない。近所に道場ができたからとか、最近腹回りが気になるからとか、何となく友達に誘われてといった理由で、道場に足を運ぶ。するとそこに「君に教えたいことがあるんだよ」という人がいて、その人のせいで、「学びたい」というニーズが事後的に出現してくる。それが師弟関係の基本であることに、僕はその台風の夜に気づいた。
(短歌だと、ボケ防止とか。まあ、ちょっとした出来心、偶然ということですね。)

(略)


合気道に限らず、学問においても、若い人にはどうも胆力がない。スマートな知性は備えているんだけれど、学問の世界だったら、すぐに権威や査定を怖がる。そして、怖がったあげくに自分自身をミニチュアの権威や査定者に造型し直して、「恐怖させる側」に回り込もうとする。オリジナルな学者がさっぱり出てこない理由の一つは、若い人が権威を怖がり過ぎていることがあると思う。胆力がないんですよ。



 胆力をつけるという教育課題において、僕がいつも念頭においているのは、「その人が生まれつき持っているキャラを強める方向に伸ばす」ということ。やたらゲラゲラ笑う子に対しては「もっと笑え」という方向に持っていく。静かで内省的な子に対してはさらに内省的になるように促す。その人のキャラを加速させること、とにかく自分が人より過剰にもっている点を「いいところ」だと思い込めることが、胆力をつける上でもとても有効だと思うんですよね。



(略)


━━━ 個人の成長には、内田さんにとっての多田先生のような「師匠」「メンター」に出会えるかどうかが、非常に大切な気がします。メンターとの出会いは、運任せ、巡り合わせ次第なんでしょうか。


内田 いや、それは「運」ではなく、「センサー」が自分に備わっているかどうかだと思いますね。僕が自由が丘道場に入ったのは1975年。それから約35年が経って、僕の後にはもう1000人以上の入会者がいると思うけれど、そのうち5年以上稽古を続けている人となると、たぶん30人ぐらいしかいない。多田先生のような世界的なレベルの武道家に、直接教えてもらえる場所でも、ほとんどの人はすぐにやめてしまう。黒帯取るまでやって止めてしまう人もいる。つまり、多田先生のような達人の教えを直接受けても、ほとんどの弟子は自分が教わっていることの例外的な価値に気がつかなかった。そういう人たちを「運が悪くて、メンターと出会えなかった人」というわけにはゆかないでしょう。どんな幸運でもそれが自分のかたわらを通り過ぎたときに気づかなければどうにもならない。
(「センサー」の問題、というのは、とてもよくわかる。)



━━━ 多田先生自身は、その1000人の弟子すべての人に対して同じことを教えていたんだでしょうか


内田 先生は人によって教える内容を変えるということは絶対にしません。白帯の受身も満足にとれないような弟子に対しても、レベルを落とした稽古というのは一切しなかった。初心者にも高段者にも、同じように極意を伝授しようとされていました
(極意、と書いてあるけれど、極意とは、いちばん最後にあるもの、ではない。初心から最後まで通じている「あるもの」。)



 自由が丘道場に入って5年目ぐらいのときに子供がたくさん入門したことがあって、その中にすごく態度が悪い兄弟がいたんです。道着の着方はぐじゃぐじゃで、ろくに礼もしない、稽古中もくにゃくにゃして技を覚える気がない。あまりに態度が悪いので、他の子にも悪影響があると思い、多田先生に「あの二人をやめさせたいんですけれど、よろしいですか」とお訊きしたことがある。そしたら、先生がちょっと驚いて、「そうかな、彼らは良いよ。身体が柔らかい」って(笑)。あれにはびっくりした。僕が「だらだらしてる」と思った動きを先生は「肩の力が抜けている」と見たわけですよ。先生は本当にすごい人だと思いましたね。



━━━ 多田先生にとっては、その二人は台風の中で稽古に来てくれた中学生と同じような存在だったんでしょうね。(ああああああ、このインタビュアーはわかってないなーー。違うだろーー。)



 そうかも知れないですね。それを聞いて、「本当に先生は合気道を教えることに関しては百パーセント『持ち出し』でやっているんだな」ということがわかりましたね。私のレベルに合う人間だけに教えるとか、私の教え方が理解できない者は来なくていいとか、そういうことはまったくない。来る者にはすべて真剣に極意を教える。でもそれは誠意とかそういう道徳的なことじゃなくて、多田先生にはどんな人間の中にも潜在的な可能性が見えたからだと思いますね。先生があらゆる人に極意を教える、極意から教えるというのは、別にそういう規範を自分に課してやっているわけではなくて、本気で教えたいから教えてるんだということがそのときわかった。 



それは先生が弟子に対して一種の敬意を示しているというふうに言えると思います。たぶん、師弟関係においては、弟子が先生を尊敬するのと同じように、教える側も弟子に対してある種の敬意を持たなければいけないんです。「師弟愛」というようなものではなくて、もっと構造的なもので。習得に長い時間と努力が必要とされる知識や技能を継承するためには、そういうディセントな関係を作り上げることが必要なんだと思う。
(もちろん、これは「道徳」の問題ではありません。)



だから、師弟関係において、教わる側が何か本質的な気づきをある日得たときにいちばんびっくりするのは、「今までぜんぜん気づかなかったけれど、初めから師匠はこんなに素晴らしいことを教えてくれていたのか」ということなんですね。大学の講義でも、学生が百パーセント理解できるようなことだけを教えるのは、授業ではない。たとえ右から左に筒抜けしていったとしても、弟子の「器」をはるかに超えたことを教えないと、学びは起動しない。弟子が何もできずにうろうろしていたときにも先生はいっときも休みなく素晴らしいものを贈ってくれていたのだということに気づいて初めて弟子はその恩に応えなければならないと思う。先生がこんなにすばらしいものを贈ってくれたのに、自分はそれを受け止めるためにこんなに貧しい器しか持っていないという疚(やま)しさ、気後れ、それが人間を成長に導くのだと思います。
(内田さんは、この無償の贈与を、「おせっかい」とも表現しているけれど、それとも少し違うと思う。
ニーチェツァラトゥストラ』冒頭に、「贈与」の話があったと記憶する。わたしはあまりにもゆたかなので器からあふれこぼれるのだ、というようなフレーズだった。師匠たるものは、自分の身を「犠牲」にしたり、作為的に「おせっかい」をしたりは、しない。ただ、器からあふれこぼれるだけなのだ。そういうふうでなければ、「師匠」たる資格はない。)