虚構モンスター化した「日本司法・・・・byブログ 『toxandoria の日記、アートと社会』

このブログは、昨日も良い記事を出してくださっていました。
ぜひ、過去記事も見ていただきたく思います。
美術と音楽も満載。ララ・ファビアンという歌手は、このブログ
で覚えました。
サラリーマン定年後のブログということですが、法律関係の方
だったのでしょうか? 法の歴史にとても詳しい。



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http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101011/p1

虚構モンスター化した「日本司法」軌道修正の要は「取調の可視化・推定無罪」の
国民啓蒙(人間への気遣いを失った司法の革新)



■公(国家)は宿命的に“多数派国民が悪でも善でも”常に善であるので多数派の
方向を左右するのが第四権力たるメディアの役割



清水正義:ナチ犯罪処罰の論理構造 「公」の無答責・「私」の断罪、

http://www.geocities.jp/dasheiligewasser/essay1/essay1-4.htm』より部分転載



・・・前部分、略・・・



処罰される対象が「公」になり得ないのは、「公」が実体を持たない抽象的な存在
であるからである。同時に、しかし、「私」が処罰対象になる場合にも限界がある。
「私」は社会を構成する個人から成り、「公」による処罰対象となるが、しかし
「公」は自らの存立基盤である「私」の大部分を処罰することはできない。「私」
が「公」に対して自らを処罰する権能を与えるのは、そうすることによって「私」
自体の存立を保持安定させるためであるが、「私」の大部分が処罰されるというこ
とはそれ自体自らの存立を否定しかねないからである。だから、処罰される「私」
は常に少数者であり、大多数は処罰する「公」の権威に震えながら、外見上はその
支持者、崇拝者として振る舞う。



・・・途中、略・・・



戦後ドイツにおいてナチ犯罪を個人犯罪視する背景には、「公」の意思の明白な
表明としての司法機関によるナチ犯罪処罰がある。これがドイツにおける「過
去の克服」の一つの特徴であり、これが日本で全く見られないことが、ドイツ
と日本の過去の克服の質的相違となって現れている。日本において「公」の意
思としての戦争犯罪処罰がなされていないことは、「私」たる日本国民個々人
戦争犯罪違法意識の欠如に結果していると言っても過言ではない。




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●「法務省が証拠品フロッピーディスク(FD)の改ざん事件で10月10日午前
に前田容疑者(元主任検事)を懲戒免職処分とし、同日の午後には証拠隠滅
罪で、同容疑者を大阪地裁に起訴した」ことが発表された
(参照⇒http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101011-00000032-jij-soci)。



●しかし、「第五検察審査会の小沢強制起訴議決そのものに重大な錯誤・欠
陥・違法性があること」、「検察庁・裁判所の両司法組織に裏金問題がある
こと」は一向に報道される気配はなく、ただ必死で揉み消そうとする空気が
漂っているばかりだ。



●が、ズバリ言えば、未だに多数派とは言えぬネット・メディアと一部の
週刊誌は別として、いわゆる“未だに多数派を自覚する”一般の新聞・テ
レビ等の記者クラブメディアなど、および“自分は未だに多数派の仲間だ
と自覚する”一般国民は、実は薄々と「司法・検察≒国家の犯罪」を感じ
つつも、それは外見上は“公に存在しないもの”と見なし無視し続けてい
る。



残念ながら、多数派の日本国民のこの様に卑怯な傾向をもたらす原因は、
プロローグが指摘するとおり、『日本において公の意思としての戦争犯罪
処罰がなされていないことは、私たる日本国民個々人の戦争犯罪違法意識
の欠如に結果していると言っても過言ではない。』ということに尽きるで
あろう。



●それにしても、このように宿命的な<国家(公)>と<国民一人ひとり
(個)>の基本的在り方に多大な影響を与える我が国の新聞・テレビ等の
主要メディアから<真実を伝え、第四権力の立場で誤った国家(及び国民)
を批判する>という強い使命感(意志)と責任感が、残念ながら掻き消えて
いるのが日本の現実だ。



●その意味で、今の日本はナチス・ドイツ型または北朝鮮型あるいは中華
民共和国型のファシズム的空気に最接近しつつあると言えるだろう。



・・・・・以下は、下記記事◆の第四章を改題し、かつ加除・修正・補筆し
て転載するもの・・・・・



◆2010.10.09/市場原理型「司法改革」の呪縛で検察審査会の欠陥(分り易さ
を演ずる情報の非対称性の罠)に国民主権を売却した司法の病理、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101009



今や「小沢とカネの問題」の捜査プロセス上の一つの到達点である「東京第五
検察審査会の小沢強制起訴議決」からハッキリ見えてきたことがある。それが、
もはや小沢さんが好きだ嫌いだの次元を超えて、遍く我々一般日本人自身の人
権侵害に直結する問題だということである。



それは、日本の司法が西欧中世の魔女裁判の如く文盲層多数派(今で言え
ば無関心層多数派)の意思を思うように操作・誘導するための実効権力の
道具たる「虚構モンスター」と化したことを意味する。そして、その「虚
構モンスター」と化した司法制度の補佐役がイメージ戦略と印象操作を得
意とする日本のマスメディア(関係者メディア)だということになる。



報道の歪み(メディア・スクラム報道への過剰傾斜、談合&横並び的な情
報取捨選択姿勢)は酷くなる一方だが、最早そこには「実効権力」の隷属
機関に甘んじつつ頽廃したメディア犯罪の匂いすら漂っている。



(以下はリンク先で)