田中良紹氏の「国会探検」は、西松事件直後にネットの中でもっとも優れた
知見の一つであると、信頼をおいて読んできました。
昨今は評判のよい東京新聞でさえ、当時は読者を馬鹿にした「世論操作」の跡が見えみえで、
電話とFAXで何度抗議をしたことか。
ついに一ヶ月後、この田中氏の記事をプリントアウトし、いまはネットでこんなにレベルの高い政治批評が
読める時代です、金出してまでおたくの低レベルな歪んだ政局記事は読みません、てなFAX送りつけて
講読止めました。


新聞の政治欄はみんな政局報道ばかり。コップの中のゴミの動きを追っては
右だ、上だと報道してくる。読者の目をゴミに引きつけて、政局を政治と
取り違えさせ、本当の政治に覚醒させないようにしている。
あほらし。


さて、田中氏の記事をここに引用する前に、今日は小沢元代表の第二回公判
が行なわれているようです。ネットニュースでも、さっそく午前の部について
報道があるようですが、以下は実際に傍聴している江川紹子さんのツィート。
どうぞ、比較してお読みください。


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amneris84 Shoko Egawa
1)開廷直後、裁判長が小沢氏の体調を気遣い、申し出ればいつでも休廷とることや、適宜水分補給をするように声をかけると、小沢氏は「ありがとうございます」と。前回のように気迫のこもった表情で、指定弁護士を睨むことはなく、口角が下がり、目もしょぼつき気味で、やはり病み上がり感がある、


2)午前中の証人は、本件土地の仲介をした不動産会社担当者の男性。土地の登記を送らせた経緯について、以下のような証言をした: たぶん大久保さんからだったと思うが、土地の売買手続きを送らせて欲しい、と連絡があった。登記を、というのではなく、全体を遅らせて欲しい、と。


3)売り主(T社)は、登記を送らせるのはいいが、残金の支払いは当初の約束通りやって欲しい、との回答だった。上司に相談したら、残金支払いの後、買い主を保護するために仮登記をして、その後本登記する方法でどうかと言われた。司法書士に確認するように言われ、T社指名のO司法書士に確認した。


4)O は、珍しいことだが、そういうやり方はできる、とのことだったので、自分から(陸山会)に提案した。O社は長いお付き合いの会社だが、非常に手続きに細かい会社で、売買契約から媒介契約まで、全て弁護士のチェックが入る。当然、この変更についても弁護士のチェックを受けていると思う。


5)登記に関しては、全てO司法書士に任せていた。「売買予約」など法律的なことは自分には分からない。Oが、登記を分けることについて渋ったりしたことはない。大久保氏からは、土地を買うのは、小沢先生の下で勉強したり仕事をしたりする人のためにアパート用意してあげるため、と聞いた。


6)陸山会裁判では、石川氏が司法書士のアドバイスで登記を分けたことを、亡くなった司法書士を持ち出していかにも嘘っぽい、と検察からも裁判所からも見られていたが、実際は、不動産会社が司法書士の助言を経て提案したことだった。石川弁護団は、なぜこの人を証人に呼ばなかったのだろう…


7)補足。弁護人は指定弁護士の尋問に少しでも疑問あると河津弁護士、弘中弁護士がすかさず異議を申し立て。村木さんの裁判で活躍した二人の連携プレー。指定弁護士は、馴れない役割に少々もたつくところもあるが、主任格の大室弁護士は、さすが鋭い。


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では、田中氏の「リトマス試験紙」です。
リンク先は、「国会探検」と、阿修羅の二通りがあります。
どちらにも、読者のコメントがたくさんついています。



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http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2011/10/post_278.html#more

http://www.asyura2.com/11/senkyo120/msg/472.html

リトマス試験紙



 小沢裁判は、明治以来の官僚支配に従う者と、日本に国民主権を打ち立てようとする者とを見分けるリトマス試験紙である。裁判の結果とは別に、誰が官僚の手先で民主主義を破壊する者かがあぶり出される。



 初公判での小沢一郎氏の陳述は、私がこれまで書いてきた事と軌を一にするものであった。私が書いてきたのは以下の事である。事件は政権交代を見据えてその推進力である小沢氏の政治的排除を狙ったものである。しかし十分な材料がないため捜査は無理を重ねた。目的は有罪にする事ではなく小沢氏の排除であるから、メディアを使って無知な大衆を扇動する必要がある。大衆に迎合する愚かな政治家が小沢排除の声を挙げれば目的は達する。



 民主主義国家における検察は、国民の代表である国会議員の捜査には慎重の上にも慎重を期さなければならない。それが国民主権の国の常識である。国家機密を他国に売り渡すような政治家や、一部の利益のために国民に不利益を与えた政治家は摘発されなければならないが、その場合でも国民が主権を行使する選挙の前や、政治的バランスを欠いた捜査をやってはならない。民主主義の捜査機関にはそれが課せられる。



 ところが一昨年、小沢氏の秘書が突然逮捕された「西松建設事件」は、政権交代がかかる総選挙直前の強制捜査であった。しかも政治資金収支報告書の記載ミスと言えるのかどうか分からないような容疑での逮捕である。これで逮捕できるならほとんどの国会議員が摘発の対象になる。そんな権限を民主主義国家が捜査機関に与えて良い筈がない。



 しかも捜査のやり方が極めて異常であった。かつて私が東京地検特捜部を取材したロッキード事件も奇怪な事件で、事件の本筋とは言えない田中角栄氏が逮捕され、国民は「総理大臣の犯罪」と思い込まされたが、それでも当時は手順を踏んだ捜査が行なわれた。ところが今回は国会議員に関わる事件であるのに検察首脳会議を開かず、「若手検事の暴走」という前代未聞の形での着手である。



 それほどの異常な捜査を新聞もテレビも追及する側に回らず擁護する側に回った。平均給与が全産業を上回るほど利益追求に走った新聞とテレビは、国税や検察がその気になれば、脱税などの犯罪で摘発される可能性があり、財務省や検察を批判する事など恐ろしくて出来ないからだろう。



 そして案の定、愚かな政治家が「政治的道義的責任」などと騒ぎ出し、国民生活のために議論しなければならない国会の審議時間を削るような事を言い出した。「国会で国民に説明責任を果たせ」と言うのである。そんな馬鹿な事を言う政治家が世界中にいるだろうか。「説明責任(アカウンタビリティ)」とは会計用語であり、国民から預った税金の使い道について「官僚には説明する責任がある」という意味である



 前にも書いたが、アメリカのクリントン大統領には「ホワイトウォーター疑惑」と呼ばれるスキャンダルがあった。アーカンソー州知事時代に不動産業者に便宜を図って違法な献金を受けた疑惑である。事件が発覚した後に自殺者も出た。特別検察官が選ばれて捜査が開始された。しかしクリントン大統領に「議会で国民に説明しろ」などという声は上がらない。議会が喚問したのは検察官である。議会は行政府をチェックするところであるからそれが当たり前だ。説明責任があるのは政治家ではなく検察官僚なのである。それが日本では逆転している。



 日本の捜査機関は国会に呼ばれてもろくに答弁しない。「捜査中につきお答えできない」で終わる。サリン事件が起きた時、日本の警察は国会でそう言って答弁を拒否したが、同じ頃にアメリカ議会ではFBI、CIAが議会に喚問され、アメリカ国内でのオウム真理教の活動について捜査内容を証言させられた。そのビデオテープを自民党議員に見せたら「うらやましい」と言った。日本の国会は行政府に舐められているのである。


 「ホワイトウォーター疑惑」に関わったとされるヒラリー夫人は大陪審に喚問されて証言した。しかし議会には喚問されない。司法が追及している時に、議会が同じ事をやる意味はないし、議会にはそんな暇もない。ところがこの国では不思議な事が続いてきた。何かと言えば「国会で証人喚問しろ」と言うのである。それがどれほど意味のないバカバカしいパフォーマンスであるかを、政治家はイヤというほど見てきた筈だ。



 ところが今回も野党の党首クラスが揃いも揃って「証人喚問」などと騒いでいる。全く学習効果のない哀れな連中である。ロッキード事件以来続けられてきた「政治とカネ」のスキャンダル追及ほど民主主義政治の足を引っ張ってきたものはない。国民の税金の使い道を徹底して議論しなければならない予算委員会で、日本の政治は肝心要の事をやらずに政治家のスキャンダル追及に力を入れてきた。大衆に気に入られたいためである。



 下衆(げす)な大衆は権力者の凋落を見るのが何より楽しい。それが自らの生活を貶める事になるとは思わずに「やれ、やれ」となる。直接民主制であった古代ギリシアでは有能な政治家ほど大衆から妬まれて追放された。偉大な哲学者ソクラテスは愚かな大衆から死刑判決を受けた。ギリシアの民主主義は長く続かなかった。民主主義は厄介なもので、大衆が政治や裁判を直接左右すると民主主義は潰れるのである。それが歴史の教訓である。



 明治以来の官僚支配の背景にも官僚勢力とメディアによる大衆の扇動があった。政党政治家の原敬が暗殺され、反軍演説をした斉藤隆夫が衆議院から追放され、田中角栄が「闇将軍」となった背景にもそうした事情がある。



 小沢陳述はそうした過去にも触れつつ、検察権力の横暴と議会制民主主義の危機を訴えた。しかしそれに対するメディアの反論は、「検察が不起訴としたのに検察を批判するのは筋が違う。起訴したのは検察審査会だ」とか、「4億円の出所を言わないのはおかしい」という瑣末なものである。



 すべての問題の発端を作ったのは検察で、目的は小沢氏の政治的排除にあるのだから、そもそも不起訴にして大衆の扇動を狙っていた。従って乗せられた方ではなく乗せた方を批判するのは当然である。また自分の財布の中身をいちいち説明しなければならない社会とはどういう社会なのか。それが違法だと言うなら、言う方が違法性を証明しなければならない。それが民主主義社会のルールである。「政治家は公人だから」と言ってあらゆる責めを負わせるのは、国民主権を嫌う官僚の昔からのやり口である。


 ともかく初公判後の記者会見で小沢氏は検察とメディアに対し闘争宣言を行なった。潰れるか潰されるかの戦いを宣したのである。検察もメディアも引けないだろうが、不起訴処分にした検察は既に一歩後ろに退いており、前面に立つのは司法とメディアである。



 行政権力の手先だと世界から見られている日本の司法とメディアがこの戦いにどう対抗するのか。小沢氏を潰そうとすればするほど、民主主義の敵に見えてくるのではないかと私には思える。



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第一回公判の陳述書と記者会見には、これまでのいっさいの抑制をふりほどいて、潰れてよい覚悟で真っ正面から、
たった一人向き合ったという裂帛の気迫がこもっていた。そのことを感じながら、たやすく口に出すことがはばから
れるくらいであった。
その直後、体調を崩したのも、一人の人間では背負いきれないほどの大きな闘いにいどんだのだと、あらためて感じ
させられたことでした。


おそらく、平成の斎藤隆夫となってもよい腹をくくったのだと思います。