安倍内閣の道徳教育

安倍内閣の表舞台に登場している人々、これらは十年前あたりにすでにうごめいていました。
七生養護学校性教育問題が起きたころです。あの頃、日本会議とか神道政治連盟?とかそういう
時代錯誤かと驚くような団体に政治家たちが所属していたのをネットで知った。
歴史教科書問題もその一つでした。


いまや、彼らが権力を持ってしまった。
道徳教科化が決定したそうです。文科省が「私たちの道徳」という教科書を配布しているらしい。
中学生向けに曾野綾子が取り上げられているが、その曾野綾子なる人物は・・・という、以下の
記事。


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http://lite-ra.com/2014/10/post-575.html

リテラ > カルチャー > 作家 > 「産休は迷惑」の曽野綾子が教科書に
道徳教科化決定記念!安倍政権が指導書にのせた曽野綾子トンデモ発言


 先日の中教審の答申で、道徳の「特別教科」化が事実上決定した。現在「教科外活動」である道徳が格上げされて成績評価対象となり、検定教科書も導入されるという。いよいよ安倍首相の宿願である愛国教育、いや、国民総ネトウヨ化教育が本格化するわけで、きっとその中身はツッコミどころ満載のものになるはずだ。
 いや、すでにその兆候は現れているといっていいだろう。今年4月から道徳教育の教科化をにらんで、文部科学省が『私たちの道徳』なるタイトルの教科書を小中学校に配布しているのだが、その中学生版に、あの曽野綾子が「誠実」のお手本として登場しているのだ。


 曽野といえば本業は小説家だが、クリスチャンとしてボランティア活動にも取り組んでおり、1995年から2005年までは日本財団会長として途上国支援に飛び回っていたことがしばしばクローズアップされる。だが一方で、彼女は極端な保守エリート主義、しかも大衆侮蔑思想の持ち主としても有名で、これまで差別的な発言を何度も口にしてきた。
 たとえば、そのひとつが、昨夏、「週刊現代」(13年8月31日号/講談社)に寄稿した「甘ったれた女性社員たちへ〜私の違和感 出産したらお辞めなさい」という一文だろう。
「最近、マタニティ・ハラスメントという言葉をよく耳にするようになりました。マタハラとかセクハラとか、汚い表現ですね。妊娠・出産した女性社員に対する嫌がらせやいじめを指す言葉ですが、この問題に対し、企業側は、反対意見を言えないよう言論を封じ込められているようです。(中略)彼女たちは会社に産休制度を要求なさる。しかし、あれは会社にしてみれば、本当に迷惑千万な制度だと思いますよ

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確かにマタハラとか家事ハラとか、語感が汚い。
そもそもセクシュアルハラスメントという言葉を、ジャーナリズムがセクハラと使い始めて、
その後、女性たちフェミニスト自身が、それに乗るかたちで家事ハラとかマタハラとか使い始めた。
とくにマタハラは、ひどい語感。


でも、そのことと、妊娠・出産した女性社員への嫌がらせの問題とは別。
記事の途中を省略して、つづきです。




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しかも、曽野センセイはたんに保守的な「女性は家庭に入れ」論をぶっているだけではない。実はセンセイには一人息子がいるのだが、その育児経験について別の著書でこんな発言をしているのだ。

「結婚して三年目に長男が生まれたんですが、小説を書くことと子育てというのは、両立がものすごく大変だった。ところが、両親が離婚して、母親が私の家にいたわけですね。だから、最初から計算したわけでもなかったんですが、子どもが生まれたら、母が面倒を見てくれる」(曽野綾子×三浦朱門『夫婦のルール』講談社
これを受けて、夫の三浦朱門氏も悪びれることなく、曽野が全く育児をしていなかったことを証言する。
「私たちは二人とも忙しかったですからね。夫婦二人では、とてもこまめには面倒がみられなかった。息子は彼女の母親が育てたようなものですね」
 つまり、自分自身は息子の世話を実母に丸投げしておいて、働く女性たちには「出産したらお辞めなさい」と説教していたというわけだ。
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さらには、曾野綾子センセイ、「以前、大手銀行に勤める知人が『本社の地下にプールを作って、女子行員との
ふれあいの場を作るのが僕のプロジェクトなんです』と言うのを聞いて思わず笑ってしまったことがあります」
(『人間の基本』新潮新書)、これに続けて「「彼が頭脳も家柄も抜群なのに絶対に偉ぶらない、都会的なセンスを
持った方だからこそ通じる、上等のジョーク」とのたまったらしい。
上記の記事の筆者は、これこそセクハラ共犯と憤るが、もっともなことです。




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 一方で、厳しいのが女性や弱者に対して、だ。どんな過酷な状況におかれている人に対しても、平気で上から目線の説教をする。04年に起こった新潟県中越地震では、地震にあって呆然としている人たちに対して、こう叱るのだ。
「私なら余震の間にどこかからお鍋を手に入れて来て、ガス洩(も)れの恐れのない遠くで、すぐに自分でご飯を炊く」
「お握りやパンの配給があるまで、どうして手を拱(こまね)いているのだろうか。年寄りは年寄りなりに、自分が今まで生きてきた体験上の知恵を働かせて、なぜ自分たちで生きることに努力しないのだろうか。それでいて国家に不平を言う人もいる」(『産経新聞』04年10月29日)


11年の東日本大震災の時も同様だった。
「大震災の時、私はその場にいなかったのですからよくわかりませんが、その夜から避難所には、食べ物を作る方はいらしたのかしら。私だったら津波が引いたら、鍋とかお釜を拾い出し、ブロックで竃を築いて、燃料はそのへんに落ちている誰の物かわからない木片をどんどん焚いて暖を取りますし、高台に住む人におコメを分けてもらってすぐ炊き出しを考えますね。(中略)ところが、震災直後には『誰の所有物かわからない鍋や、誰の家屋の一部だったか定かでない木片を無断で拾ったり燃やしたりしたら、窃盗になる』なんてことを言い出す人も少なくなかったそうです」(「週刊ポスト」14年3月21日号)
 津波の去った後で「そのへんに落ちている木片」を燃料にして飯を作る、なんてシーンを小説家が書いてきたら、「それは燃えません」と編集者は突き返すと思うが、そもそも曽野は小説家とは到底思えないほど想像力に乏しく、他人の痛苦に鈍感なのだ。そして、自分がいかに恵まれているか、ということに対する自覚がまったくない。
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机上の空論の人ですね、曾野綾子センセイ。



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 そうした“弱者への冷淡さ”は、06年に東京都世田谷区で発生した中学2年生の少年による自宅への放火事件に対する感想に如実に出ている。加害少年が両親の離婚後、当初引き取った母親と折り合いが悪くなったために、すでに再婚していた父親の家に暮らすようになっていたという背景を、こう言い捨ててのけているのだ。
「今の夫人も、さだめしうっとうしいことだったろう。(中略)しかしとにかく同居に賛成してくれたことだけでも、私はいい女性だったのではないか、と思う」(『昼寝するお化け 第八集 謝罪の時代』小学館
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記事の筆者も、たとえ後妻でも未成年の少年を保護する立場にあるのに、「うっとうしい」はないだろうと
怒るが、そのとおり。こういう言葉づかいで、複雑な人間関係をいってのける、このひどい鈍感さ。


そして極めつけは、これ。
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「この世で、人間が他者に要求してはいけないものが三つあります。『自分を尊敬しろ』と言うこと、『人権を要求すること』、『自分に謝れ』と他人に言うこと、この三つです。これら三つは要求した瞬間から、相手に侮蔑の念を抱かせるものです。(中略)人権を要求して得るものは、金か、制度だけです」(『人生の基本を忘れた日本人 この世の偽善』共著/PHP研究所
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自分を尊敬しろの、自分に謝れのということと、「人権を要求すること」とは、事のレベルが
違いすぎるでしょ。頭の中、どうなっているのか???
もしかしたら、「人権」攻撃をしたくて、サンドイッチにしたんですか?


こういう曾野綾子さんが、誠実の手本として、中学生向けの道徳教科書に掲げられているのだ
そうです。クリスチャンとか、ボランティアやってるとか、そんなところで、こてこてと美化
するのでしょうね。
それじゃあ、道徳ではなくて、偽善を教えるもの。


モラルを若い人々に教えたかったら、古典そのものを読ませることです。
聖書でもいいし、論語でもいいし。
その前に、文科省の役人でも、安倍首相でも、自分自身がまずモラルを身につけてほしいものです。


上記の記事執筆者は、酒井まどさんという方でした。