人質事件現地取材・・・by 三浦朝日新聞特派員

朝日新聞アフリカ特派員の三浦英之記者が、ヨルダンでの取材ツィート
を流してくれています。
ヨルダンでは、昨年九月、国民の反対をおしきって「テロとの戦い」有志連合に参戦したそうです。その直後、パイロットが人質にとられた。
そういうヨルダンに対策本部を置くこと自体、日本政府は人質解放への
何ら意欲がなかったということがわかります。


誰もが予感していますが、三浦記者も日本はこの潮流に巻き込まれていくだろうと。いくだろう、ではないでしょう、三浦記者。
ツィートも政府によって監視されているらしいです。三浦記者は、朝日幹部によっても監視されているでしょう。このようなツィートがぎりぎりなのかもしれないが、なさけない。
そして、わたしたちが無力で、何にもできないのが、本当になさけない。



以下、下から読んでください。
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三浦英之(朝日新聞アフリカ特派員) @miura_hideyuki · 2月9日
㉗少し書きすぎたかもしれない。でも今回は思い切って書くことにした。日本は潮流に巻き込まれていくと思う。アフリカで取材するものとして、この「悲劇」が日常化しないことを願わずにはいられない。日本はすばらしい国です。誰がなんと言おうと(終)
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㉖村の中心にテントが張られ、村人ら600人が詰めかけた。追悼礼拝の最中、爆音をあげて戦闘機が村の上空を飛び去った。カメラマンの話ではその瞬間、父親が「おお、息子よ」と叫んだという。父親が感情をむき出しにしたのは、最初で最後だった
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㉕翌日、再び操縦士の故郷に向かった。午前9時に行くと、死後一度も姿を見せていなかった父親がいた。カメラマンと2人で単独会見。日本への感謝を口にした。地元のテレビ局が2社いたが、海外メディアとしては初のインタビューだった。
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多くが政府を非難していた。一触即発の状態になったとき、死刑囚の死刑執行の情報が流れた。すると人々は一気に沈静化し、死刑執行と復讐、政府を支持する掛け声だけが延々と続いた私は恐ろしくなった。政府による情報操作。コントロールされている。
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㉓後藤さんの殺害で日本メディアが帰り始めた。直後、操縦士殺害の映像が流れる。まるで映画のように効果を狙った上で生きた人間を焼き殺す。すぐに父親が待機している集会場に向かった。外では千人の市民が怒りの渦のようになっていた。
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私が知る限り、集会があったのはあの場だけ。彼らは大型バスに乗ってやってきた。ヨルダンは日本から多額の支援を受けている。しかし今回交渉は失敗に終わった。政府主導。ろうそくの火を見ながら、厭な味が舌に残った。
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㉑その夕、大使館前でヨルダン市民による後藤さんの追悼集会が開かれた。現場で取材したが、日本を思うヨルダン市民の気持ちは間違いではないものの、あの演出は過剰だと感じた。参加者の多くが政府系組織の要請できていることを半ば認めた 。
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⑳ここで外交委員長はとんでもないことを口にする。「操縦士は5割の確率で殺害されている」。慌てて付け加えた。「残りの5割は拷問で体にアザがあるために示せない」。市民が救出を叫んでいる最中の「殺害発言」。彼は知っていたのではないか。
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⑲ヨルダン市民は操縦士救出を強く願っており、死刑囚と後藤さんを交換すれば、国内に極めて不安定な状況が生まれる。イスラム国の狙いは、ヨルダンの治安を悪化させ、ヨルダンと日本の関係を阻害することだった 。
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⑱死刑囚はヨルダンにとって重要なカード。イスラム国は後藤さんと操縦士という2枚のカードを持っていた。1枚のカードでいかに2枚のカードを取り返せるかを検討した。後藤さんを解放したかったが、操縦士が生存を確認できないかぎり、無理だった 。
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イスラム国とは複雑な交渉を続けた。相手はテロリスト。ヨルダンと日本は一つのグループになり、第三者を通じて交渉を続けた。私の知る限り、日本とイスラム国の直接交渉はない。日本とヨルダンは同じ問題を抱えており、協力的に進めることができた。
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⑯ヨルダンの議員会館に潜り込み、外交トップの外交委員長の部屋の前で張り込んだ。委員長が出てきたとき「10分だけ」と部屋に押し入った。委員長は現地助手を知っており「またあなたか」といった感じで、でも結局30分以上応じた。以下、その内容
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⑮最低の対応だ。日本政府は何も交渉できなかったのではないかという印象をぬぐえない。現地助手と相談し、交渉の内側に少しでも迫ろうと話し合った。
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⑭午前7時半、中山外務副大臣は拳を握りしめ、苦悶の表情で現れた。肝心なことは何一つ言わない。質問が飛ばないので、私が「日本政府はイスラム国と交渉できていたのですか」と口火を切った。大臣ははぐらかす。再度「明言を」と詰め寄ると無視された。
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⑬直後、現地対策本部のある日本大使館前に張り付いた。午後10時すぎから車の出入りが激しくなり、未明まで続いた。気温数度。寒い。午前4時半に大使館前で記者会見が設定されたが、結局午前7時半までずれ込んだ。一睡もせずに記者会見を待った。
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⑫翌日、イスラム国は猶予時間を24時間に再設定。私は操縦士の父親が待機する市内の集会場に張り付いた。100人強のメディアと数百人の市民が取り囲み、情報を待った。そこに後藤さんのあのおぞましい殺害映像が流れた。
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⑪その夜、操縦士の故郷カラクに車を飛ばした。操縦士の救出を求める市民の一部が暴徒化し、警察車両などに投石。あちこちで火が上がり、治安部隊が催涙弾で鎮圧に乗り出していた。人々は焦っていた(写真は現地助手撮影)
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⑩日没後、操縦士の父が市内の集会場で記者会見を開いた。「息子の安否だけでも教えて欲しい」とカメラの前で懇願し、「政府から情報は無い」と暗に政府を非難した。集会場の外では同郷の若者たちが政府に非難の声を上げ始めていた。
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⑨ヨルダン政府の苦しさがにじみ出た会見だった。発表の趣旨は2つ。操縦士の生存を示せ。死刑囚はヨルダンにいる。日没の期限が来ても交渉が進展していないことの証左だった。担当相は唇をかみ、質問を振り切って逃げるように去った。
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⑧事態が動いたのは28日。イスラム国は後藤さんの映像使い、交換の期限を日没に設定。政府は日没直前に急きょ記者会見を開いた。会見を数度にわけて人数を絞り、質問を制限して一方的にコメントだけを伝えるという「メディア対策」の元での発表だった。
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⑦今回、地元報道はメチャクチャ。例えば死刑囚の所在。「トルコ国境に向かった」「イラクにいる」「交換された」。全部デタラメ。私は刑務所に足を運んで確かめた。治安責任者は「死刑囚は刑務所にいる。実際に確認に来たのは、君と共同通信だけだ」
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ヨルダン政府は昨年9月、国民の声を押し切って「参戦」を決めた。昨年12月に戦闘機が撃墜され、中尉が人質に取られたとき、ヨルダンの人々は、「これは政府の決定が導いた惨事だ」と政府に強く抗議した。
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⑤ヨルダン市民の感情については少し説明が必要だと思う。日本とヨルダンは似ている。歴史的に米国寄りで米国の強い影響を受ける。シリアやイラクと隣接し、市民は自国が紛争に巻き込まれることを懸念。だから米国主導の有志連合の参加に反対した。
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④ヨルダンは親日国。王室と皇室のつながりが深く、多くの市民が日本を愛し尊敬している。例えば入国審査。私は外国人の窓口ではなく、ヨルダン人窓口に並ぶように指示された。それでもしかし、自国の操縦士の救出を優先させる気持ちは当然だと私は思う。
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イスラム国が死刑囚の解放を求めたとき、市民は中心部を埋め「死刑囚と操縦士を交換すべきだ」と求めた。日本では「後藤さんも操縦士も一緒に」と報じられたが、現場の雰囲気からすると、確かにそういう声も少なくないものの、大多数の人が前者だった 。
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②カイロで後方取材をした後、ヨルダンの首都アンマンに入ったのは1月25日。イスラム国が後藤さんの映像を掲げ、ヨルダン政府にサジダ死刑囚の解放を求めてきた翌日。同僚は3人。2人が日本・ヨルダン両政府の動きを追い、私は一般市民を取材した。
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イスラム国による人質事件を取材し、昨日ヨルダンを離れた。今回の事件は日本の将来に恐らく大きな影響を及ぼすだろう。備忘をかねて約20日間に及んだ個人的な取材記を残そうと思う。少し長くなるかもしれない。
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