海外メディアによるアッキード事件、そしてアレッポ

あっというまに三月です。
少しも良いニュースが無いばかりか、どんどんひどくなるばかり。
このところのアッキード事件、あの塚本幼稚園がついに表舞台にでました。
しかし、日本のメディアはあまり報道していないそうですね。


twitterで拾いましたが、海外での報道。ここでまとめてあります。
詳しくはブログをたずねていただきたいのですが、報道された場所のみ、羅列してみます。
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http://ameblo.jp/minakatario/entry-12252354842.html
外電での安倍と森友学園疑獄事件の報道は日本のTVでは知らされていませんのでUPします。


ドイツ国内最大の発行部数を誇る『南ドイツ新聞』(Süddetche Zeitung)のウェブサイトに、2017年2月26日、安倍昭恵夫人に関する記事が掲載されました。そのなかで、渦中にある森友学園の国有地不正取得疑惑と、安倍晋三・昭恵夫妻の関連が報じられています。



日本の安倍晋三、極右学校をめぐって攻撃の的に」とのタイトルで詳細な記事を掲載したのは、アイルランドの有力紙「アイリッシュタイムズ」(2月23日付)。「極右勢力と日本政府との結びつきについて懸念が消えない。極端な国粋主義的幼稚園の運営組織となれ合いの取引を行ったのではないかとされる事件で、この懸念が再燃した」と東京特派員デイビッド・マクニール記者がリポート。



ワシントンポスト紙、「日本の首相は最大の危機に直面。このスキャンダルはいつでもすぐに消え去るという兆候を示さない。「モリトモ学園」が「安倍晋三記念小学校」になることを期待して土地を買収したことが明らかになった。



「大阪の幼稚園、在日韓国人を蔑視する内容のプリントを配布」と題してフィリピンのABSがそのまま報じている。その他各社も報道。東南アジアで警戒感が広がっている。



森友学園』国有地売却問題に関する国際報道。ロイターが続報を発信。



更に実はインドネシアのTribunNewsも13日時点で報道。「日本会議」のこともハッキリと書いてある。やはり右傾化する日本には親日国といわれる国でもアジアの国は警戒している。



エコノミストは3月2日にアジア版で配信した記事(リンク先記事の表記は4日付け)で、安倍首相が学校用地の売買についての関与を否定し、同学園が「安倍晋三記念小学校」の文言で寄付金を集めていたことについて、「何回も断っているにもかかわらず、寄付金集めに名前を使われたことは本当に遺憾」として、同学園に抗議した点を記す一方、過去には籠池氏を称賛していたことを指摘する。



ニューヨークタイムズのジョナサン・ソブル記者は、日本の教育界の流れに注目している(2月24日付記事)。



ロイターは3月2日付記事で、通常であれば安倍首相は第3期目実現も夢ではない状態にある、という。ただし、今回のスキャンダルで安倍首相にも「弱点がある」ことが判明した。スキャンダルを乗り越えられるのかどうか、「評論家たちの意見は分かれている」。


以下略


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世界的有名人ですね。安部夫妻は。
これで第三期目も夢ではないとは・・・・。日本国民は何を考えとる。。
なさけない。


口直しです。
これは、人間の絶望というものがどんなものか、つたえてくれる文章です。
ぜひ、全文をお読みください。
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http://www.afpbb.com/articles/-/3118073
【AFP記者コラム】アレッポ最後の日々
2017年03月06日 15:45 


【3月6日 AFP】昨年9月(注:日本語版は翌10月)、「拘束され、両親を失っても、私はシリアを撮り続ける」というコラムを掲載した。その記事で、AFPでアレッポ(Aleppo)を担当するカラム・マスリ(Karam al-Masri)記者は、包囲されたアレッポの内情の一面を浮かび上がらせた。

 今回のコラムでマスリ記者は、アレッポで過ごした痛ましい最後の日々についてつづっている。同記者が数年にわたって取り組んできた、荒廃したアレッポ取材の最終章となる。


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 時折、私は目を閉じて、起きたことのすべてが悪い夢に過ぎなかったと想像したい気分に駆られる。目が覚めたら、6年前のアレッポに戻っていたら──。

 カメラマンや戦争担当記者は通常、紛争取材のために前線に派遣され、任務が終われば自宅に戻る。

 私は違う。地獄を生きてきたが、いまだに安らぎを知らない。現在に生きているはずが、向かっているのは未知の世界だ。

 アレッポでAFPのために撮影した写真や動画はもう見るに堪えない。胸が締め付けられ、美しい思い出とつらい思い出の両方があふれてくる。

私の人生のうちのこの5年間が、頭の中にフラッシュバックしてくる。革命、反乱、戦争──私の世界は完全にひっくり返ってしまった。

 ほとんど眠れない。悪夢と美しい夢とが交互に訪れる。戦前のアレッポの夢を見たかと思えば、その後は爆撃と流血の光景に切り替わる。

 今暮らしているトルコ・イスタンブール(Istanbul)で夜になると、さまざまな思いにとらわれて身動きが取れなくなる。忘れられそうにない。血の一滴一滴が、記憶に永久に染みついて消えないだろう。



 二度とシリアに戻らないとは考えたくもない。何もかも残してきたのだ、家も、住み慣れた土地も、アルバムも。記念の品一つ持ち出せなかった。とりわけ心残りなのは、母の墓に別れを告げられなかったこと。言いようのない郷愁を覚える。

 アレッポの隣人らの疲れた顔でも見られたらと思う。私はアブ・オマル(Abu Omar)さんを覚えている。アレッポクラシックカーを収集しており、昨年2月AFP向けに初めて撮った動画で取材させてもらった。オマルさんは育った家を離れることを拒否していた。私だって離れたくはなかった。

 アレッポでは、住民らの苦悩を撮影し取材することが、生き延びる支えになってくれた。今では、私の人生がもはや意味を成さないように感じる。



 アレッポ県。ガジアンテプ(Gaziantep)。イスタンブールアレッポ市を離れれば離れるほど、私の悲しみは深まる。いつか耐えられなくなるのではないか──永遠によそ者という気がするのではないか。アレッポで過ごした最後の1週間、私は疲れ切っていた。休む暇もなくこちらからあちらへと、避難を余儀なくされた。爆撃があろうが、同じ屋根の下にとどまりたいと思うこともあった。

 寝るマットレスがないこともあった。別の場所では、毛布がなかった。私は凍えながら眠った。口にしたものといえば、一握りの傷んだナツメヤシだけだった。この地獄から抜け出したいと、緑のバス(シリア政府が住民避難措置により運行)を夢見るようになった。

 アレッポで過ごした最後の1週間は、内戦開始以降で私が過ごした最悪の時期だった。イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」に拘束された時よりもひどかった。

 恐怖心しかなかった。通りに出て写真を撮る危険を冒す気にもなれなかった。大虐殺が起きていた。私はただ一つの思いに取りつかれていた──自宅か、家の前の通りで死ぬんだと。



■なけなしの品さえ失った最後の日々

 不安は的中した、自宅が爆撃されたのだ。政府軍が迫り、即決処刑が行われているという話ばかり耳にした。私は逃げた──だがその前に、爆撃されている自宅周辺の様子を最後の映像として撮影することは忘れなかった。私は何もかもを置き去りにし、罪の意識にさいなまれている。


以下略

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