あれは詩じゃない  

 おそらく十六、七年ぶりにもなるのだろうか、詩人の井坂洋子さんと池袋で会って、食事をした。

 待ち合わせた芸術劇場二階喫茶店の扉にあと数歩というところで、大きな白いマスクをして出てきたのが井坂さんである。なつかしいという思いが湧く。お互いの手をあげて挨拶をかわし、連れだって下りのエレベーターに乗った。考えてみると直接会ったのはこれが二度目なのだ。


 初めて会ったのも、ここ池袋だった。イタリアレストランでワインを飲んだことを覚えている。『未来』のための原稿依頼をしてあって、それを受け取りにうかがったのだ。


 吹き抜けの空間を、エレベーターで下りながら、井坂さんは振り向いて夕食はどこがいいかとたずねる。

――お豆腐料理でいい?
――あ、お豆腐、好きです。このごろお豆腐が好きになっちゃって。油ものは、もう・・。

 井坂さんは、大きな白いマスクをはずした。風邪をひいたのと聞くと、暖かいからという。


 芸術劇場を出、駅ビルの方へ歩き、エレベーターの箱に乗って、店と店のはざまを通り、奥まったところにあるお豆腐料理屋の暖簾をくぐる。


 向かい合わせの席に坐りながら唐突に、あのとき阿木津さんが言ったことを、わたし、二つ覚えてるのよ、と言う。聞かせてもらったが、あまりたいしたことも言っていないことに面伏す思いで、ふたたび忘れてしまった。
 

 わたしの記憶しているのは、ワインで酔っぱらったわたしのまえに、井坂さんのおだやかな笑顔があったということだけである。気持のよい距離から静かに見つめているような笑顔だった。
 

 でも、そのときもらった原稿のことは、よく覚えている。詩にとって批評とは死体解剖みたいなもの、死体解剖にはたして意味があるのだろうかというようなことが書かれてあった。そののちしばらく、「死体解剖としての批評」ということが、おりふしの思いに浮かんで来た。


 瓶ビールを一本だけとって、グラスに分け合ったが、井坂さんのグラスのビールはあまり減らない。背筋をぴんと伸ばした井坂さんの座高は、わたしより少し高い。手作り豆腐を木の匙で掬いながら、互いに過ぎてきた年月を確かめ合うように、詩の現在、歌の現在が話題になる。ふたりともすでに還暦近い年齢になってしまった。


 じつは、こうして「還暦」という語を口にするのは、畏れ多いような、おそろしいような、とても真正面から向き合えないといった気持がわたしにはする。それに価するような歩みをしていないからだろう。


 にも関わらず、確かに時は過ぎているのであって、かつての三十代女性詩人井坂洋子も三十代女性歌人阿木津英も、流れ去った時の感触をまさぐるようにしながら、その少しずつずれてきたものを語り出さずにはいられない。


――このあいだは、永瀬清子の地元で記念行事があるというので、講演依頼されて行ったのね。会場は満員だったんだけど・・・。


 永瀬清子の詩を朗読するのが、NHKの有名な女性アナウンサーだったらしい。朗読が主で、みんなは朗読を聞きに来てたのよ、わたしは添え物だったわけ、と苦笑する。自治体の「町興し」的感覚で行なう、昨今の行事の一つなのだった。


 詩では、しばしば朗読が行なわれる。朗読をどう思うかと尋ねる。

――だって、詩で、いい朗読って聞いたことがないもの。あのアナウンサーの朗読も、朗読法にのっとったちゃんとしたもので、すごく上手なんだとは思うけど、あれで永瀬清子の詩がわかるのかしら。


 胸の奥で、ふかく同感する。有名アナウンサーの朗読をたっぷり聞いて、詩を聞いたという満悦の笑みをあいまいに浮かべながら、会場を散ってゆく市民たち。郷土の詩人永瀬清子を知ってもらい、かつ市民の教養を高めるという目的を、エンターティンメント化した催しで見事に成功させた市役所職員数人の、誰彼に頭を下げては挨拶する紅潮した顔。


 井坂さんは、中原中也賞の選考のために山口にも行ったそうだ。年若い受賞者のインタビュー記事が、そういえば新聞に出ていた。これまでの詩とは違って、ずいぶんビジュアル的なもので、あれはあれなりにセンスがいるのだろう、わたしにはとてもできないけれど、という。


 現代詩は、あるときから比喩を捨てて身軽になった。そうした詩人だけがこれから生き延びていくのではないか。そう、今年の中原中也賞の選考をともにした高橋源一郎が言ったともいう。


 暗喩は、現代詩にもっとも重要な技法であってきた。その暗喩の晦渋を振り捨てる傾向に、詩はあるらしい。詩誌専門雑誌の若い編集者が、可愛く無邪気に「井坂さんの今度の詩はよくわかりませんでした」と書いてくるのよと笑った。


――わたしももう少し、わかりやすく書いた方がいいのかしらね。


 詩というものは一字一句に骨身を削るもの、余白に語らせるもの、という常識も崩れかかっているらしい。


 話を聞きながら、そういえば詩の世界に、短歌の俵万智や、俳句の黛まどかのような存在は出現しただろうかと、思いを巡らす。適当な名が浮かばない。わかりやすくて、大衆に浸透するような詩という意味で、「あいだみつをのような詩は・・・」と口にした。
そのとき言下に「あれは詩じゃない」と井坂さんはさえぎった。


 そう、確かに。「あれは詩じゃない」。こういう言葉をひさかたぶりに聞いた気がする。

「あれは歌じゃない」。一言のもとに斥けて話が終わる、そういう会話を、わたしもかつて何度も耳にしたことがあった。そういう会話を耳の底に残しながら、わたしは自分なりの「歌である」歌とはどういうものかという尺度を手探りし、歌を作ってきた。


 歌じゃないものは、作れない。作りたくない。作ることに価値を感じない。


 たぶん、わたしは作ることに関しては意識して頑固に守ってきた方だと思う。けれど、いつのまにか、この時の流れのなかで、「あれは歌じゃない」という言い方を他に向かって放てなくなっている。そういう言い方をすることを抑制し、封印しさえしている。


 井坂さんの「あれは詩じゃない」という一語を聞いて、新鮮な風に打たれたように、そう思った。


 三十一文字でさえあれば、あれも歌、これも歌、何デモアリ、の滔々たる現在の流れのなかで、「あれは歌じゃない」という言葉は無効になってしまった。あなたがいくらどんなに言ったって、マス・ジャーナリズムの認知があるでしょ。有名大歌人の認知だってあるでしょ。メイン・ストリートを闊歩しているでしょ。そんな声無き圧倒的力を前に、「あれは歌じゃない」という語にこもる呪文の力は失せてしまった。そのことは、誰もが知っている。


 井坂さんの「あれは詩じゃない」という言葉を聞いたとき、その背後には「詩であるもの」の存在がなお確かにあることが感じられた。井坂さん個人の思いを保証する詩人たちの共同感覚が、まだそこでは崩壊しきってはいないのだ。


 しかし、また、振り返って思えば、わたしたち短歌作者が「あれは歌じゃない」という言い方を抑制しているのも、たんに時勢におし流されているせいばかりではあるまい。


 「あれは歌じゃない」という語を、護符のように振り回すことができなくなったときに初めて、それでは「歌」とはどういうものかという問に直面することになってしまった。わたしたちの誰もがその問のまえに立たされ、問題のあまりの大きさに呆然とし、やがて口をつぐむしかないことを思い知る。


 頼りになる共同感覚が崩壊しさってしまったわたしたち短歌作者たちは、ひとりひとりが、素裸のままで、その大きな問に向きあわされているに等しいのだ。


 わたしたちは、ひとりひとりが、その胸の中に「歌」とはどういうものなのかということを、問い返してゆかなくてはならない。何が、どのようなものが、自分にとっての「歌」なのか――。


 E.H.ゴンブリッチの名著『美術の物語』序章冒頭には、「これこそが美術だというものが存在するわけではない。作る人たちが存在するだけだ」とある。


 そう、これこそが「歌」というものが存在するわけではあるまい。歌は、日本語による特殊な歴史を負った特殊な詩形である。長い歴史の間には、これこそが「歌」と思われるものの変遷もあっただろう。


 あるべき「歌」の定義が問題なのではなく、「作る人たちが存在するだけだ」。その「作る人たち」がどのように作ってきたのか、日々の、時々刻々の、その営為に刻みこまれたもの、それこそが知りたいことだ。


 この辺境の地の片々たる一詩形を、ひとつひとつ実現してゆきつつ、「作る人」は何を思うのか。何を願うのか。


 たとえば、売れなければならないしがない浮世絵師だった北斎は、どのようにして目先の人々に受けるばかりでない、あのような版画へ向かっていけたのだろう。江戸で俳諧師の仲間入りをした芭蕉が、どのようにして、何を求めて、あのような芭蕉になっていったのか。


「作る人」たちの日々の思いのなかに、もっと金を稼ぎたいとか、売れたいとか、名を知られたいとか、上から与えられる栄誉が欲しいとか、ライバルの名が高くなってゆくかげでの嫉妬とか、そんなものが全くまじりこまなかった、関係がなかったとは、とても思えない。しかしながら、それらに足を取られては右往左往し、身を溺れさせた者たちは、決してあの北斎芭蕉のような仕事は成し遂げられなかったであろうということも、わたしたちは自明のように知っている。


何が、彼らを「そこ」へ引っ張っていくのか。


 自分の仕事だ。自分の仕事だけが、向かうべき場所を教えてくれる。このごろのわたしは、そんなふうに考えてみる。暫定的な答である。


 杜甫が、今のような杜甫として評価が定着するまでに三百年かかったという。三百年後、たとえ詩聖とあがめたてまつられようと、それが「作る人」杜甫にとって何の関係があろう。百年後の名声を期待するのは、只今の名声を期待するのと同じ根性でしかない。
「作る人」が、どのように「作る人」であり続けるのか、あり続けうるのか。そういう疑問が、おりふしにわたしの胸を去来する。


 眼前の井坂さんは、御飯の上に刻み紫蘇漬けを乗せながら、少しずつ口に運んでいる。グラスには、泡を無くしたビールが、黄いろの液体となってしずまっている。


 やや空虚になった食卓の埋め合わせをするかのように、井坂さんはバッグをひらいて、熊谷守一美術展のパンフレットや、熊谷守一美術館で買った絵はがきを取り出した。近くに住んでいるという。


 守一の娘・榧さんは、わたしの知合いの友人でもあって、お会いしたことがある。面差しは忘却のかなただが、あの美術館のたたずまいははっきりと覚えている。そんなことどもをおしゃべりしながら、では、と言いそうになって、ふと気づく。


――あら、原稿いただいたかしら?

今回は、『あまだむ』にわたしの歌集評を御願いしたのだ。

――いえ、まだ。


 ごめんなさい、こんなものしか書けなくて、というような意味のことを、呟くように言いながら、井坂さんは席を立つ。


 その席の立ち際にわたしは、初めて会ったときもらった原稿に、批評は死体解剖のようなものだとあったことを覚えている、と告げた。立ち上がりながら、


――それも比喩を見つけたと思ったのね。

と、つまらないことのように言って、面を伏せ、話から身をそらす。


 そうして、わたしたちは別れ、わたしは改札口の方へ歩き出した。井坂さんは、これからあの大きな白いマスクをかけて、家まで自転車を漕ぐのである。

                                  (『星雲』2008.5)