(1) 奇妙なレッスン

 わたしの棲んでいる窓のすぐ外には、遊歩道が通っている。蛇崩(じゃくずれ)川という、蛇の出てきそうな街川が流れていたのだそうで、それをコンクリートで覆って暗渠にし、植え込みをして、人々の散歩道にしたのである。ここに棲みついてから、もう十年を越えるだろうか。


 かつてエンゲルスは、巨大人口が集中化しつつあったロンドンを、「ロンドンのように、何時間歩いても終りの始まりにさえ来ず、郊外に近づいたと思わせるわずかな気配にも出会わない都市は、なんといっても独特なものだ」と言ったそうだが、およそ百五十年たった現代では、そんな都市は珍しくもなくなった。日本にもいたる所に小模型があって、なかんずく東京という都市の「何時間歩いても終りの始まりにさえ来」ない索漠とした徒労感は、比べようがない。


 蛇崩川のような街川をコンクリートで塗り潰し、わずかに残った流れも川底までコンクリートでうち固め、道という道をまんべんなくアスファルトで覆いつくした街なのである。


 ともあれ、このずんべらぼうの街上を、蛇崩遊歩道のほとりの建物の扉からわたしは出て歩く。そのとき、手のひらはアンテナだ。どこか遠くから響いてくる言葉をつかむのだ。かのボードレールは、まっぴるまの巴里の場末のちまたを歩いて、詩句を見つけた。


 残酷な太陽が町に野に、屋根に麦畑に
 はげしく降りそそぐとき、
 わたしはひとり、風変りな剣技の稽古に出かける。
 街のすみずみに韻律の僥倖を嗅ぎ出し
 敷石につまずくように言葉につまずき
 ときには久しく夢みていた詩句にぶつかりながら。

                              詩集『悪の華』より「太陽」抜粋


「風変りな剣技(ファンタスク・エスクリム)」のファンタスクは、変な、奇妙な、けったいなという意味で、エスクリムはフェンシング。ボードレールは、剣の修行をするような心持ちで街歩きをした。どこから攻めて来ても敏感に反応するあの心持ち。あの緊張を保ちながらする街歩きは、なるほど修行だ。


 剣を使わないわたしは、両手を垂れ、全身を感覚にして、人から見れば、奇妙なレッスンに没頭する。
                                       (西日本新聞2003.9.18)