猫一首



テーブルの下なる猫に足の裏あてつつ昼の時傾きぬ  

 
        

 素足がこころよい五月も、ときにうすらつめたい日がある。テーブルのしたに丸くなって眠り惚けている猫の、ふくふくした腹のあたりに無遠慮に足をつっこんだり、背中のがわから足のつま先を押し入れたりしながら、温もりをとっていると、眠くなる。ふっと気がつくと、窓のそとの日差しは傾き、向かいの建物の壁には斜めのひかりがさしていた。


 と、まあ、そういう歌です。うちの窓のそとには、欅の木と、そのすぐうしろに集合住宅が建っているのです。
 猫を好きな人は、多い。猫の歌を作る人も多いし、猫歌特集なども、結社雑誌でやっているのを見たことがあります。


 でも、わたしは、猫歌人はいやなんです。この地球上のどこかで市街地をひきずられて行き、無慈悲な銃弾の犠牲になる人が、今の瞬間だっているかも知れないのに、猫歌特集なんか何の意味があるというんでしょう。


 そうだ、話が飛びますが、介護の歌とかいうのも、いやだな。老人介護がたいへんなことはわかっています。わたし自身、二十代の終りから三十代前半の足かけ六年間、看取りました。いろんなことを学んだ。歌も作らないことはなかった。けれど、介護の一部始終とそこに動く若干の感情を報告したって、何の意味があるというのでしょう。


 猫の歌、介護の歌、海外旅行の歌、家族の歌、桜の歌・・・・etcetc。対象と自己との関係に生起する感情をうたって意味のあるのは、その感情そのものが作者主体によって問い返されている場合だけです。人間が生きるということ、この社会に生きているということ、ながい歴史を積み重ねてきた現在に生きているということ、そういう視点から感情をとらえている場合だけでしょう。


 むむ・・・・冒頭拙歌は、たんに猫と居眠りをしたというだけの歌なんですが・・・。

                                         (俳句雑誌『羅』2006)