柔らかなこころのために

 歌を作りはじめてから、三十年を過ぎました。一九七四年、児童相談所の心理判定員として勤務していた二四歳のとき歌に出会い、ついにここまで来てしまいました。歌を生活の中心に据えるという生き方は、否応なく「清貧」たらざるを得ないのですが、そういうところがむしろわたしにとっては好ましかったのです。もちろん霞を食うわけにもいきませんので、種々の臨時職や塾教師や家庭教師などをして凌いできました。
 幸いと言っていいかどうか、一九八〇年代後半あたりから、歌を飯のタネにできるカルチャーセンターや生涯学習センターがいちどきに開設され、わたしもその余録にあずかってきたわけです。まあ、これとても雀の涙なんですけどね。昨今は、大学が創作技法のような実践講座もひらくところがあって、二、三の大学で非常勤講師として短歌創作や近現代短歌史などを講じています。
 カルチャー・センターでは、わたしより年上の、高齢者の方々に向き合って来ました。大学では一転して若い世代ですからどきどきしましたが、今のような時代、若い人々と接する機会があったのはほんとうに良かった、そうでなければ現在の短歌の状況から青年たちを判断してしまうところだった、という感慨をもっています。
 大学にもよるでしょうが、いまの学生は、旧仮名が読めない。漢字が読めない。書けない。ゴッホゴーギャンも知らない。ところが、歌を”感じさせる”と、じつにまっとうな感受性をもっており、的確な感想を口にすることもしばしばです。講義した歌のベスト10を選ばせると、歌壇では納戸に押し込めて見向きもしないような島木赤彦の


  げんげんの花原めぐるいくすぢの水遠くあふ夕映も見ゆ
  夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖の静けさ


のような歌を一位に選び、自分は自然をうたった歌が気持がなごむという学生が、クラスの半ば近くもいるのです。与謝野晶子をはじめとして、情熱的な恋の歌もたくさん紹介するにも関わらず、です。
 創作技法の講義についても、同じように驚くことがあります。毎年のようにと言っていいほど、講義がすすむにつれて、彼らの歌のいわゆる今風な、語彙の少ないお定まりの、うわっつらな物言いに、今期の学生はだめかもしれないと落胆します。そして次の時間に、彼らに言わざるを得ないのです。
「歌は、自分の本当の気持をつかんでうたうもの。倫理道徳や世間の目から見て悪いことでも何でも言っていいのだ。ゲロを吐け、歌はゲロを黄金に変える錬金術だ」と。
 彼らの作っている歌は、よく大学生短歌としてアンソロジーになったりしている類のもので、それよりはいくらかまずいといったものです。しかし、わたしの言うのは上手下手の問題ではありません。方向として、認められないのです。彼らのあの歌を承認すると、わたしは自分の養ってきた価値の尺度を変えなければならなくなります。わたしは、歌に、人間の生きた息づかい、こころの底からの純粋なかがやき、そこに素肌が触れて浄められるような思い、そういったものを求めないではいられません。気散じや気晴らしではなく――それはそれで楽しいのですが、それとは違って――、歌に触れることによっていつのまにか内的世界がゆたかにおしひろげられていくような、そんな味わいをもつもの。
 わたしは、それが文学というものであり、芸術というものであると思ってきました。無償の行為です。歌という形式にはそれがあるからこそ、わたしはこんな生き方を選んで来たのであり、また日々に試されつつ選んでいるのです。
 わたしの言うことは、彼らの耳にどれくらい届くだろうか。疑いながら、その日の授業を終えるのですが、意外なことにたちまち彼らの歌は手応えあるものに変貌します。
 なんという可塑性、柔らかなこころ。人生を経た高齢者ではこうは行きません。今も昔も、青年の柔軟な、何かしら求めるようなこころは、少しもかわってない、と強く確信します。
 歌壇をふくめた世間を見渡すと、青年たちの作る歌――中年・老年の作る歌もそうですが――は表面的でうわっすべりで浅く、目立ちたがりな機知に満ちており、はなはだ読後に充足を覚えません。しかし、こうしてみると、それは青年のせいではない、世間に作られているのだ、その柔らかなこころが敏感に反応しているのだということがわかります。
 この柔らかなこころを、たんなるうすっぺらな目立ちたがりやにするように、いまの世の中は日々励ましているのです。それ以外の生き方は無いかのように彼らを遮断し、あるいは無価値であるかのように、彼らの眼前で貶めてみせているのです。
 世の中をつくっているのは誰か。四十代五十代以上のオジサンとオバサンだ。つまり、わたしたち。
 振り返れば、わたしたちもロクな青年ではありませんでした。わたしが、この九大に学んだのは、七十年安保闘争のまっただなか、モラトリアムそのものの存在で、学問ということの片端をもついに感得せずじまいに卒業してしまいました。いまの学生と同じです。無知だったのです。
 歌に関わってはじめて、わたしは自分の受けた国語教育がいかに虚脱したものであったかということを知りました。国語というより、わたしたちを形成する言語であるこの日本語というものについて、というほうがいいでしょう。この言語を洗練してきた人々の営み、この言語によって内的世界をゆたかならしめてきた人々の足跡、そういったものの一端をわずかながら知ることができました。
 伝統を守るとか、受け継ぐとかいった話ではないのです。戦後教育の誤謬をただすなどと声高に主張する一群のひとびとがいますが、彼らが良き文を作り、詩歌を作るとは聞いたことがありません。その言説はまことにイデオロギッシュなものです。
 世界の言語のなかの一つとしての日本語、そこに現出した”よきもの”を知るためには、おおざっぱな概論ではなく、一語一語に微細な神経を働かせて、何の邪心なく、素膚を押し当てるようにして聴きとる行為がなければなりません。
 柔らかなこころをもった青年たちをいとおしむならば、わたしたち自身のありかたをつねに勇気をもって省みなくてはならないようです。
                                            (九大会報2006)