辺見庸の講演記録・・・・死刑と新しいファシズム   戦後最大の危機に抗して

辺見庸の八月三十一日に行われた講演記録です。
ながいけれど、忠実なテープ起こしのようで、冗長な部分もありますが、かえってそのために読みやすい
ですから、ぜひお読みください。

死刑制度について、わたしははっきり意見を言えません。無い方がいいだろうというくらいの程度。
吉展ちゃん事件というのがありましたね。その犯人の短歌のじつにすばらしいものを最近では読みました。
娑婆の人間よりもいっそう深く人間らしい歌です。


辺見庸は、俳句をつくる大道寺将司という死刑囚から来た手紙が黒塗りされている部分についてまず語り
はじめます。本を出版して一行詩大賞というのを、受賞したのらしいですね。
黒塗り部分は、どうやらその出版した句集のなかから俳句を引用したものであったと前後から
推測されるが、なぜそんな部分を黒塗りする必要があるのか、それを徹底して問うていきます。


死刑囚だからといって、良い俳句をつくって受賞したら「おめでとう」の一言をいって何が悪いのか。
看守がこっそり「よかったな」と耳打ちして何が悪いのか。看守の行為としては、若干逸脱している
かもしれなくても、人間としてよろこびを共有する行為がどうしてできないのか。あまつさえ、
その受賞した句集の俳句引用まで真っ黒塗りにしなければならないのか。規則をたてにとって。


後半は、昨今の日本の状況へと話が移ります。
この呆然とするばかりの、歴史的大転換の時代を口をつぐみ、感覚を無くしたように過ごしている
日本のわたしたちの現実について。


ぜひ読んでいただきたいと思います。
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http://www.forum90.net/news/forum90/pdf/FOLUM131.pdf
後半より

中略


いま、歴史がガ ラガラと音をたてて崩れていると感じることはな いでしょうか。ぼくは鳥肌が立ちます。このとこ ろ毎日が、毎日の時々刻々、一刻一刻が、「歴史的 な瞬間」だと感じることがあります。かつてはあ りえなかった、ありえようもなかったことが、いま、 普通の風景として、われわれの眼前に立ち上がっ てきている。ごく普通にすーっと、そら恐ろしい歴 史的風景が立ちあらわれる。しかし、日常の風景 には切れ目や境目がない。何気なく歴史が、流砂 のように移りかわり転換してゆく。だが、大変なこ とが立ち上がっているという実感をわれわれはも たず、もたされていない。つまり、「よく注意しな さい! これは歴史的瞬間ですよ」と叫ぶ人間が どこにもいないか、いてもごくごく少ない。しかし、 思えば、毎日の一刻一刻が歴史的な瞬間ではあり ませんか。東京電力福島原発の汚染水拡大はいま 現在も世界史的瞬間を刻んでいます。しかし、わ れわれは未曾有の歴史的な瞬間に見あう日常を送 ってはいません。未曾有の歴史的な瞬間に見あう内 省をしてはいません。3.11 は、私がそのときに予感 したとおり、深刻に、痛烈に反省されはしなかった。 人の世のありようを根本から考え直してみるきっ かけにはなりえていない。


中略


神奈川県教育委員会 は「国旗掲揚と国家の斉唱は、教職員の責務であ って、強制にはあたらない」と断定しています。 この断定にもとづきふたつの教科書について、こ れを採用するなというふうに各高校側に圧力をか ける。で、結果、高校側が採用希望を取り下げた、 という経緯です。 さらにおどろくのは、これを伝えた NHK のニュ ースが、これを関東版のローカルニュースとして ごく簡単に流したことです。全国版の、もっと上 の価値のある、重要なニュースバリューのある問 題としては、なんとかいう雑誌が、読者五十人に 対してプレゼント当選と掲載しながら実際には三 人にしかプレゼントを送っていなかった、これが、 現下深刻に考えるべき不正な問題として全国ニュ ースで大きく取り上げていました。読者五十人に 対してプレゼント当選と掲載しながら実際には三 人にしかプレゼントを送っていなかった雑誌の虚 偽と日の丸・君が代およびそれらをめぐる教科書に かんする神奈川県教育委員会の間違った断定。ど ちらが重要でしょうか? 問題の質としてどちら が重いでしょうか? 物事の軽重、上と下、白と 黒が、逆になってしまっている。われわれは受信 料を、ほぼ半強制的に支払わせられながら、ファ シズムを買っている。わざわざお金をだして、フ ァシズムをなぜ買わなければならないのでしょう か。なにかおかしくはないか。



中略


耐えがたい局面はすでにおとずれています。結 局は、どのみち戦端を開かざるをえない。戦端を 開くのは個人です。個であると思うんです。個と していわば一歩も引かずに、不正義を睨む。暴力 をふるえというのではないのです。でも睨みつけ る。絶対に引かない睨みつけかたというものがあ るにちがいないのです。「注意しなさい。これが歴 史的瞬間ですよ!」という声がいま必要です。に もかかわらず、「これが歴史的瞬間ですよ!」とい う人間がいないだけではなく、歴史が崩壊してい る、転覆されているという実感が何者かに奪われ ている。



中略


憲法 はある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、 ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づか ないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」と、 あのエテ公が言った。われわれはあれだけの暴論を 苦笑してすませていいのか。お咎めはなにもない。 そのまま彼は副総理の座にとどまっている。これ はこういうことでしょう。ある日、誰も気づかない うちに平和憲法を「安倍憲法」に変えるようにナ チスの手口に学んだらどうかね、と言ったのと同じ ことです。しかし、そもそもナチス憲法など存在し たことがなかったのです。麻生は二重の間違いを おかしています。ワイマール憲法は 1919 年に公布、 施行された 20 世紀民主主義憲法の先駆けといわれ るドイツの共和制憲法です。ヒトラー支配下の「ド イツ第三帝国」時代にヒトラーはワイマール憲法に かわる新たな憲法を制定することはなかったので、 ワイマール憲法は、形式的には、1949 年のドイツ 連邦共和国基本法ができるまで存続したことにな ります。しかし、それはあくまで形式上のことで、 実際にはワイマール憲法は 1933 年の悪名高い「全 権委任法」(「民族および国家の危難を除去するた めの法律」)の成立によって効力を失ってしまった のです。これは要注意です。ヒトラー政府に国会 が立法権を委譲してしまったわけですから由々し い事態です。  (略)   こうしてみれば、麻生の発言がいかにデタラメ かがわかります。民衆はなにも気づかずに「全権 委任法」を受けいれたのではなく、半数はこれに 反対していたのに、それを暴力でねじ伏せたのが ナチスでした。麻生はナチの「全権委任法」に学 べというのでしょうか。なぜそれを新聞はもっと 詳しく大々的に書かないのか。ナチスの手口に学 べ。こんなことを平気で言えるのは日本ぐらいで す。こういう感覚が平気になってる。この妄言を かばう者たちが増えてきている。これはどういう ことなのでしょう。総毛立たないのか? 鳥肌が 立たないのか? われわれは力なく笑ってしまう。 冷笑する。またあの阿呆がやったかと。



中略


全体に、いまの安倍というひとが考えているこ とは、アメリカが 9・11 以降に全面的に法制度を 変えていった、あのやり方に似てきているわけで す。愛国者法です。安倍は日本版愛国者法をやり たいのではないでしょうか。すなわち、2001 年の「米 国愛国者法」(The USA PATRIOT Act)。つまり法律 に非常事態下のような例外条項を作っていく。つ いで、法の例外状態を常態化する。どういうこと でしょうか。規模は小さいかもしれませんが、さ っき言いました、手紙の黒塗りについてもそうで す。



中略


日本という国は、私は「あらかじめのファシズム の国」だと思っています。もともと日本という国 家の成り立ちそのものが、ファシズム的なものが あると私は思っております。そのことと天皇制との 関わり、天皇制に対する戦後民主主義、それから 戦後の左翼、共産党をふくめた戦後の左翼、知識人、 作家たちの天皇制に対する立ち居ふるまいとは一 体どうだったのか、ということを考えます。なぜこ の国は、惨憺たる敗戦を経験しながら、そして周 辺諸国の人間たちを、何百万じゃない、千五百万 から二千万人も殺しながら、なぜまた、かつて歩 んできた道に近づこうとしているのか。なぜドイ ツのようなナチの完全否定、戦後補償の徹底、歴 史の反省ということができなかったのか。ドイツ はユダヤ人虐殺などへの個人補償だけでも、総額 約 6 兆円を支払ったといわれます。日本がアジア 諸国に支払った賠償額は約 6 千億円にすぎません。 加えて、先の大戦で日本は侵略戦争をしておらず、 慰安婦を強制的に徴用した事実も、南京大虐殺の 事実もなく、朝鮮半島の植民地支配では鉄道や学 校建設などの面でよいことをたくさんやった...... などと歴史の転覆と全面的塗り替えがすすんでい ます。昭和天皇の戦争責任を問う声はいつのまに かかき消えつつあります。それどころか、皇国史 観とファシズムを称揚するような言動が、自民党 その他のゴロツキのような政治家によってなされ、 麻生の「ナチに見習え」発言にせよ、深刻な議論 もなく笑い話で終わりになってしまっている。ここ まで許してしまったものはなんでしょうか。戦後の民主主義はなにかと命をかけて戦ったことがあるでしょうか。戦後の民主主義にとって命をかけて戦うべき「敵」はいなかった、のではないでしょうか。


中略


手紙を黒く塗りつぶした「真犯人」について、最 後に告げなければなりません。「真犯人」は、それ を許してきた、われわれなのです。死刑を存続さ せている究極の「真犯人」は、権力であるとともに、 それを許しているわれわれなのです。


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またしても「われわれ」が出てくるのですが、「われわれ」と言ってしまっていいんだろうか。
辺見さんが言うのは、要するに日本的な日本人は「個」の力が弱いということ。空気にまかれる。
主語が無くていいんです。「わたしは」「わたしの意見は」と言を立ち上げる力が弱い。
「わたしはこうだが、あなたはどうか」と尋ねる力が弱い。「あなたの意見を聞こう」とリアクション
を待つ姿勢に乏しい。


辺見庸わたくしはこう考えるが、あなたはどうなんだ、あなたの意見を聞かせてくれ、こう言って
問いを発し、答えを待たないかぎり、日本的な日本人はとまどいの微笑みを浮かべ、あいまいに
やり過ごしてゆくことでしょう。「われわれ」が悪いのかもしれない・・・とうちに向かってつぶやき
ながら。


わたしたちに必要なことは、外に向かって「わたしはこう考える」と明確に発声してゆくことなんです。