鈴木邦男著『愛国者の座標軸』作品社2007.12

一水会」という右翼団体があって、鈴木邦男という人がいることはおぼろげながら知っていた。教育基本法改正案をめぐって「愛国心論議かまびすしい一昨年のある日、そのインタビュー記事を見た。「宝にも凶器にも愛国心は化ける」「自民党が卑劣だと思うのは、自分たちがだらしなかった責任を憲法教育基本法のせいにしていることです」。胸のつかえがすっとおりた。こんな当たり前のことを、いまは誰も言う人がいない。右翼のこの人の方がよほどきちんとしてるよ。さっそくコピーして、ちょうど戦争と短歌について講義していた大学生たちに配った。

 その「一水会」現顧問鈴木邦男が、ホームページに八年間書いてきたもののなかから、最近四年間に絞って厳選、一文章ごとに「単行本収録にあたってのコメント」を付したのが、本書である。気軽に読める。


 今でも警察のガサ入れの悪夢を見るほど、かつては逮捕歴数知れずの武闘派だったらしい。「大衆を目覚めさせ、巨悪に天誅(てんちゅう)を下す」、それが愛国者の使命だ、正しいことをやっているはずなのに警察は弾圧する、マスコミは無視する、だから直接行動に訴える。しかし、ある時、気がついた。自分は天に代って「誅」することができるほど立派な人間か。政治的主張があるのなら、「言葉」をもって「言論の場」でやればいい。


 以来、鈴木邦男は、たとえ右翼界で孤立しようと、脅かされようと、徹底して「言葉」の人である。それも、柔軟な心をもった――。理想はあるが、現実ではいくら負けてもいい、弱くていい、という。


 こんな鈴木から見れば、今の「にわか右翼」の教授や評論家たちは、多数派にいたいからだけのように見える。「時代が変わり、左翼も滅び、愛国も改憲も自由に言えるようになった。だから『安全圏』にいて過激なことを言ってるだけじゃないか」。


 ある自民党政治家は、テレビの政治討論番組で「教育勅語を復活させるべきだ」とさえ口走った。「馬鹿なことを、と思った。しかし、『時代錯誤だ!』と怒鳴る人もいない。大問題にもならない。その後、同じことを言う人が増えた」。

 かつて、右翼・民族派の集会は、どこも開会前に「教育勅語奉読」があったそうだ。鈴木も暗唱した。



 しかし、うまく読めない。読み間違える。つっかえる。立ち往生する。愛国者だから、こうすべきだという形や使命感、義務感だけが先行すると、こんなことになる。「新右翼の教祖」と言われた野村秋介さんが、たまりかねて怒鳴った。「こんなことは、もうやめろ!」と。
 「どんないいことでも強制され、形式的になったら、心がなくなる。それに人間は成長する。大人になったのに小学生の時の服を着ようとしても無理だ」と言った。皆、シーンとなった。



 二〇年くらい前のことだそうだが、それ以来、皆、「奉読」はやめたという。右翼の方がよほど「言葉」にこもる実(じつ)を大切にしていると思う。


 二〇〇三年一〇月、東京都教育委員会は、入学式や卒業式などでの国旗掲揚・国歌斉唱の詳細な実施指針を都立校長に通達した。以後、「起立しない人は処分。起立しても歌わない人間も処分。口をあいてるふりをしてるが声を出さない人間も処分」。

 都教委の人間や、保守派の議員、PTAなど「監視する人間は、監視に忙しくて、自分ではうたっていない。こんな連中こそ一番、国歌を侮辱し、冒涜(ぼうとく)してるんじゃないのか」。
ヒラの教師の時は『強制反対!』を叫んでたのに、校長になるや、一転して『強制』している人もいる。『生活』のためなのか。自分の『家庭を守るため』なのか。だったら、そんな『生活』など捨ててしまえ」。


 こんな言葉を聞くとドキッとするくらいに、今では、誰もが自己保身は当然、人間の常と思うようになってしまった。自分だけが生き延び、栄えることを、うしろめたいこととは思わない。長いものに巻かれ、強いものにへつらって、自由に意見を口に出す勇気を持たない。


自由のない”自主憲法”よりは、自由のある”占領憲法”の方がいい」と、鈴木は言う。賛成だ。



                                           (熊日新聞2008.6.1)


のちの記: せんだっての鈴木邦男の本の書評が、熊日新聞紙上に掲載されましたので、ここにupします。「自由のない"自主憲法"より・・」という発言は、アメリカで憲法九条かなにかの国際会議席上でのことだったようですが、これを鈴木は「覚悟を決めて」言ったと記します。

これまで改憲論者として主張してきたこと、それとの整合性、またこの発言によって生じる右翼界ないしは周囲との軋轢、広がる波紋、などなど、一切を考え合わせ、考えつめた結果、"よし、この発言と発言の結果を自分は担おう!"と、そう「覚悟を決めて」言葉を口に出したのです。

「言論の場」において「言葉」の人であろうとする者が決してしてはならないことは、実(じつ)のこもらない言葉をもてあそぶということ。鈴木さんは、そこを芯から知っている人だと感じられます。)