「女の空間」で。

六月二十日、金曜日の夜、以前から依頼されていた「女の空間」という小さな集まりにうかがいました。わたしの住むところから歩いても行ける距離に、このようなスペースがあって、活動されていたのです。いわば、会員資格は女性のメンバーズグラブ、あるいは互助会、勉強会、駆け込み寺(?)


歌の話をしましたが、思うことは、ことに戦中戦後を生きてきた人の中には、日本語フォビア、というと強すぎるかも知れませんが、それに近いものがあるんだろうな、ということです。あのいまわしい戦争期の、歌を利用した愛国心教育
この嫌悪からの脱出が、韓国語や中国語などなどの言語への関心に向かうのではなく、おおむね欧米語に向かうところに、われわれの共有している近代後進国コンプレックスもうかがえます。


日本の大学では、日本文学科が看板下ろしをつぎつぎと始めているというのに、アメリカの大学では英文学の講義も英詩の講義も健在なんだそうです。


世界の言語は消滅しつづけているといいます。「言語の他殺」「言語の自殺」。
今世紀中に、世界の言語の90パーセントは消滅するか、消滅の危機に立たされるだろうとも言われているそうです。
言語も、おそろしいほどのグローバリズムの影響を受けつつあります。


かつてのような「愛国心」教育は、物を読むだに、また自分でも調べるだに、ありがたくない教育です。ああいうのは、まったくゴメンこうむりたいのですが、しかし、だからといって日本語フォビアのまま「言語の自殺」をしてゆくのも、うべなえない。


日本語という、世界のごく一部でしか使われていないこの言語ではありますが、それなりに持ち伝えてきたものもあります。歌は、わたしにそれを気づかせてくれました。


しかし、グローバリズムのかげで、早くもじつは、日本語は扼殺されかかっている、のかもしれない。


歌の滅亡どころか、日本語の衰弱滅亡ってことも、ある。このごろの「古典を声に出して読む」ブームは、その予兆あるからこそ、かもしれません。


                                               (オリジナル)