あれやこれや

ブログ更新はたいへんだ、とは聞いていましたが、やっぱりそうなんですね〜。
七月に入って、ブログ画面にゆっくり向きあうゆとりがありませんでした。気になりながら。


とりあえず、備忘録のようなメモを残します。
いつものように、新聞"引裂き"記事の整理。


7月2日付け東京新聞の「読者交論」に七十歳のある書家の方が、「都教委のあまりにも理不尽な対応に強い怒りを感じ、抗議をするとともに、その見解を求める者です」という書き出しでの投稿です。六十歳のとき、定時制高校に入学し、学んだとき、すばらしい先生に出会った。


先生は、定時制に通う一人一人の生徒を、陰になり日なたになりして支え、六年でも七年でもかけて卒業させた。「特に人権問題には見識がありました。朝鮮の人や被差別部落に対する差別など、自分の責任ではないのに重い荷物を背負って落ちこぼれそうな生徒を励まし、アパートを世話したり、仕事を探し、学校に来るように促しました。少年院に入った生徒がいれば、どこでも自費で面会に行き、出所したらまた学校へ来られるように手配するなど、筆舌に尽し難い立派な先生でした」。


しかし、この先生は、卒業式のとき、君が代をうたわなかった。
「卒業式の時、私は起立をして「君が代」を歌いましたが、担任の木川恭先生は、自分の信念で起立をされませんでした。君が代も歌われませんでした。そのため、今年六十歳の定年を期に、引退を迫られ、嘱託とか講師などとして学校に残る道をすべて閉ざされてしまいました。
まだまだ気力体力も十分あるのに、都教委が木川先生を"クビ"にしてしまったのです。先生を囲む会でその話を聞いた私は、先生の日ごろの教育者としての立派な言動を知る教え子として、悔しくてたまりませんでした」。


「こんなに生徒の厚い信頼のある先生を、起立をしなかったとか君が代を歌わなかったという形式的なことで"クビ"にするとは、都教委は間違っています。」
「『東京都教育委員会』とは一体どんな組織なのか。教育現場を支配できるほどの権限を持っているのだろうか。考えれば考えるほど、空恐ろしくなります。ぜひ都教委の見解を求めます」。


   *


「考えれば考えるほど空恐ろしくなります」−−−権力の冷酷の横顔をふと覗きこんだときの、ぞっとするような感触。
都教委のみならず、昨今、そこかしこで、しばしばこの横顔が覗けるように、わたしも思うのです。


わたしは非力で、何もできない。
せめて、この七十歳の方の心からの声を、このまともな感じ方を、誰かが見てくれるかも知れない場所に掲げておこうと思います。


ヒトというものは、環境にすぐ順応してしまいます。まともな感じ方とか、ふつうの感じ方とか、言っていても、すぐに閾値はせりあがっていく。茹でガエルの比喩がありましたね。
自分の「まとも」と「ふつう」は、何を背骨とするのか、いつも振り返りたい。


ヒトがヒトであるという、その基本のところを、かえりみながら進みたい。
犬猫にもおとるろくでもないヒト、っていう存在であることを、ね。