西行一首

 昔かないり粉(こ)かけとかせしことよあこめの袖に玉襷(たまだすき)して
                                              西行


 あるとき、西行でも読んでみるかと、NHK市民大学講座のテキスト「西行の世界」(久保田淳)を買ってきた。数頁ひらいて、まず、頭注に並ぶ「題知らず」十数首ばかりの冒頭〈あかつきのあらしにたぐふ鐘の音を心の底にこたへてぞ聞く〉に目をみひらく。西行とは、こういう人であったのかと思った。


 さらに頁を繰ると、掲出を含む「たはぶれ歌」十三首。つくづく驚嘆した。さらりと作った、線描きのような即興歌であるが、この線のなんという自在さ、軽やかさ。


 若者の軽やかさではない。老年期にあるものの精神の軽やかさが、このような線を実現している。老いにいたる時間をすべて含みこんだような軽やかさなのである。

 掲出歌は、第二首目。最初の歌は



 うなゐ子がすさみに鳴らす麦笛の声におどろく夏の昼臥し



 老人は暑にまいって、しなえたように昼寝をしている。そこに童の吹く麦笛が聞えて、目が覚めた。夢うつつのはざまに聞えてきた麦笛が、童のむかしをよみがえらせる。


「あこめ」は、どちらかと言えば女童の着るもののようだが、この歌の場合はどうなのだろう。わたしは、性役割などにも無頓着な時期のおのれ、と受け取りたいが。周囲の大人の女性に、きれいな襷をかけてもらって大得意。時も忘れて、小さな手のなかで土を練ったり、摘んできた草の粒実を器に入れたり。


 わたしもまた思い出す。どうして子供というのは、あんなに時を忘れて、腹いっぱい遊べるものなんだろう。


                                    (『歌壇』2007.4「私の古典の一首」)