「涙目」という言葉

ほかの新聞ではどうか知りませんが、東京新聞では、何年か前から、一般ニュース記事の中に「涙目」という言葉がつかわれています。せんだっては、ヒラリー・クイントンの選挙戦を報じた記事のなかに「クイントンは涙目だった」とありました。


子どもの頃、薬の効能書きを読むのが好きでしたが、目薬だと、「目やに、かわき目、涙目」などと並んでいます。「涙目」ってどんな症状なんだろうと不思議に思ったものです。クイントンは、眼病だったの?


たまらず、読者応答室なるものに電話をかけました。どういう方がお答えくださったのかわかりませんが、「涙目」の正当性を主張されまして、わたしとしましては怒り狂わずにはおれませんでした。もちろん、辞書(きちんとした)にはいまだ登録されてない言葉です。


ところが、先日、「放射線」なる一面コラムで、稚拙ながら心情あふれる野口シカの手紙をとりあげて講義したというエッセイを読みました。「受講生には笑う子もいる。涙目の青年もいる。」
国語作文教育研究所所長という肩書をもった方の文章です。作文指導の総元締めみたいな方が作文指導をしたというエッセイのなかで、です。


話し言葉のなかで、若者言葉をときに取り入れて「涙目」なんて言ってみるのは、楽しいと思います。チャットでも、いいと思います。
けれど、きちんとした文章の中で、しかも作文指導をしたという内容の文章の中で、つかうのは、はばかられませんか。「〜の品格」という語が流行のようですが、それこそ「品格」が問われないでしょうか。


「涙がにじむ」「目をうるませる」「涙ぐむ」「涙をこぼす」「涙を浮かべる」・・・これらのニュアンスに富んだ言葉を、ぜんぶ「涙目」一語であらわそうとする、これは言葉の省力化です。ぱっと一言でいえるので、便利なのです。


しかし、文章を書くとは、文を練ることでもあります。省力化して、どうする。


ニュースの言葉が、省力化に傾くのはしかたがないでしょう。だから、報道言語は、文芸の言葉に害悪をながすわけですが、せめての節度として、辞書に登録されたノーマルなものをつかうようにして欲しい。流行の、いちばんあとからついていって欲しい。


今度こそは投書してやろうか、と新聞を一週間ばかりも保存しているうちに、ふがいなくも、だんだん意気阻喪してきました。


でも、「涙目」はぞっとする言葉です。


                                     
「涙目」、反対! ! ! ! ! ! ! !




                                    (2008.8.5)