若桑みどり著『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』上・下 集英社文庫 2008.3

この書は、厖大な史料を駆使した学問の書である。
イタリア・ルネサンス時代を中心とする西洋美術史を専門とし、ヴァチカンの図書館で古文書を渉猟することのできる語学力をもつ著者が、そこに豊富に残された天正少年使節の史料を読み込んだものというだけでも、その価値は知られよう。


だが、それだけでなく、これが人間の書であることに、わたしの心は揺すぶられる。


「プロローグ」に、なぜ六十歳をすぎて天正少年使節というテーマに逢着したか、記す。
無我夢中で三十数年間ミケランジェロを研究してきたが「そのことがとてもむなしかった」。
自分と彼とをつなぐものが何もない。
そのとき甦ったのが、戦後の貧困のなごりのあった一九六一年、ローマに留学するために横浜からマルセイユまで一ヶ月をかけて船で渡った強烈な体験だったという。


「ほんとうのテーマ」に出会った若桑みどりの筆は、自由闊達、少しも学問くさくない。
じつは、わたしは、豪気でずばずばとものを言う若桑みどりを、ある研究会で何度か見たことがあるが、その肉声が聞こえてくるようだ。
ことに、イタリアを知っている若桑の、少年使節一行を迎えるローマでのはなやかな儀式や、舞踏会でダンスをおどる少年たちを描く筆致は光彩陸離たるものである。


そして、この書が、人間の書であるというもっとも大きな理由は、「私が書いたのは権力やその興亡の歴史ではない」というように、その時を生きたひとりひとりの顔が見えてくるところにある。
信長も秀吉も、スペイン国王もローマ教皇も、神父たちも四人の少年たちも「彼らが人間としてすがたを見せてくるまで執拗に記録を読んだのである」。


たとえば、キリスト教布教は、貿易による莫大な収益をともない、その背後に征服主義的な武力を隠してやってきたとは、よく聞く話である。だが、じつはさまざまな神父がいた。性格も出身も背景も違い、いくつかの考え方があった。


征服主義的なスペイン人神父も確かにいたが、彼らの布教の仕方は、高度の文明をもっている中国や日本には適さないと、その更迭をし、東西の相互理解の一助として天正少年使節派遣を計画したイタリア人巡察師ヴァリニャーノのような神父もいた。


ヴァリニャーノ神父は、異文化を尊敬することのできる「ルネサンス的な教養をもった高い知性の人」であった。
生き合わせたひとりひとりの顔が見えてくるとき、歴史の別の可能性も見えてくるのは不思議なことだ。


さて、八年の命がけの航海ののち、キリスト教禁制下の秀吉の時代に帰国した四人はどうなっただろう。


厳しい時代に、彼らはともに天草の修練院で司祭となるべく研鑽をつんだ。
最年長の伊東マンショは、司祭となって四年後病死。ラテン語のいちばんよくできた原マルティーノはマカオに亡命、そこで多数の翻訳出版事業に従事した。船上でみんなに可愛がられた千々石ミゲルは、信仰を捨てるが仏教徒にもならず、藩の家臣に重傷を負わされ追放される。


中浦ジュリアンは神父として潜伏し活動していたが、第一次鎖国令の年捕らえられ、穴吊りの拷問を五日間耐えて絶命した。


逆さに吊られた暗黒の穴のなかで、真っ青い海のまぼろしが浮かぶ。「一日じゅう甲板で魚を釣っているので、メスキータ神父が「クアトロ・ラガッツィ!スー、アル・ラヴォーロ(四人の少年よ! さあ勉強だ)」と叫ぶのが聞こえた」。


最後にほんの少し記録から離れた数行が、魂を揺さぶる。


                                (熊日新聞阿木津英が読む」2008.9.21)



【のちの記】若桑みどりさんは、昨年十月、急逝されました。一周忌も近いこの時期に、本書を読み、紹介することができて、ひそかにうれしく思います。若桑さんは、東京生れだとあるが、そもそもは北九州出身だと、本書で知りました。なるほど、あれは九州女です。
若い頃は、油絵を描いていたそうで、やっぱり女はデッサンが下手だ、と、ずばっとおっしゃる。わたしのやっている短歌と結びついて、同感しながらも、さまざまなことを考えさせられたことがあります。
それにしても、この『クアトロ・ラガッツィ』は名著。最後の数行は、良き芸術を見たあとのような、すばらしい余韻を残します。忘れられません。
こういう学問する女性がいたことを、誇りに思います。
この書は、2003年に単行本で出たものであるのに、生きていらっしゃるあいだにわたしは読まなかったのでした。