知るということ

以下に紹介する記事は、五月の新聞切り抜きからです。心に留まった記事は捨てるに捨てられず、結局五ヶ月間も机の周辺に置いてあった。部屋が片付かないわけです。


例によってうちは東京新聞ですから、その五月二十二日付け、世界の街海外リポートという在外特派員のコラムの頁。ミャンマーヤンゴンから。「 」内は、引用です。


ある日、記者が参拝者でにぎわうヤンゴンの寺院で夕暮れを眺めていたら、若い僧侶が話しかけてきた。驚くほど澄んだ目をした二十九歳の青年僧だ。毎日の厳しい生活のことやサイクロンの被害のことなど話してくれ、それからしばらく黙った。


「じっとこちらを見つめて口を開いた。『去年、この国で起こったことを知っていますか。私たち僧侶の・・・』と言いよどむ。僧侶らの大規模なデモと軍政による武力弾圧のことだ。
『知っている』と答えると、にっこり笑って『ありがとう』と突然こちらの手を握った。不意をつかれて何も言えずにいると、もう一度『ありがとう』とだけ繰り返し」て歩き去っていった。


茫然として後ろ姿を見つめていると、僧侶は物乞いの子どもに話しかけて笑いながらほっぺたをつつき、夕暮れの雑踏のなかに消えて行った。


青年僧の姿が目に見えるようです。
彼は、自分たちの正義や、その正義に基づく行動を知ってほしい、というのではなかっただろう。
たとえ相手がどのような判断を下してもいい。相手にどんな行動も期待していない。
ただ、国境をこえて、どこかで誰かが知ってくれている−−それだけで、心からうれしくなったのでしょう。


わたしたちは、声のまったく響かない真空のなかに閉じ込められていると感じるとき、絶望へ陥る。青年僧は、自分たちの声は響いているという確証を得、それだけで、生きる希望が身のうちに湧くのを覚えたのです。


わたしたちは、知るだけでいい。行動できなくとも。
しかし、知ろうとするわずかの心起しを怠ってはならない。
知ろうとしない心の怠惰こそはにくむべきもの−−。


・・・・・・・麻生邸を見学に行こうという貧困ネットワークの青年たちの企画が公安警察の力によって抑えられ、三人逮捕された事件のYOU TUBE動画が、14万件もアクセスしたというニュースを読んで、ヤンゴンの青年僧の記事を思い出したのでした。
もし、動画を見てない方がありましたら、検索してみてください。今どきの若者の動画編集センスをうかがわせるものもあって、なかなかです。