文学魂

世間というものを知り始める、十代から二十代にかけての若者のありようはいつの時代にも同じである。
すじみちの通った理や、人間としてあるべき義、そういったものが額面どおりに通じず、むしろ姑息に、抜け目なく、うまく立ち回ったほうが得になるという裏面を見て、そのはざまで思い悩む。迷う。嫌悪する。あるいはいくばく幻滅を味わいつつ受け入れる。
そして若者の良さは、いくらちゃっかりしているように見えても、その底には失望や幻滅や空虚が影のようによこたわっているところだ。それが証拠に、善きもの、あるべきものがふと感じられたときの反応は、強く、鋭い。


「牙」で短歌を作りはじめたときのわたしが、それであった。
世間というものをひと通り覗き、いよいよ自らをそこに投げ込んで生きなければならない時期が来ていたが、どうしてもためらわれた。思い悩んでいたそのとき、「牙」という一冊の歌誌を見たのである。
母の所属していた短歌グループがあって、この地方の短歌集団の雰囲気は感じられた。それとはまったく異なるものを、「牙」という、うすっぺらな歌誌から受け取ったのである。


裏表紙に三段組で書き込まれた後記が、眼前に浮かぶ。
電車のあのスパークする青い火花をつかむためだったら、すべてをなげうってもいい、という芥川龍之介の言葉が引用されていた。その後記の文面には「文学魂」があった。そう、思った。


わたしが作歌を始めたのは、青い火花をつかむためには一切をなげうつといった、世間の価値からは転倒した価値のなかに自らを投げ込み、こののちを生きて行きたいと願ったからであった。
いささか古い文学青年的考え方だと言えば言えようが、わたしが見たものは、そんな臭みのあるものではなかった。
七十年代安保闘争世代のしらけきった、無気力な、それでいて最初の豊かな世代の実利主義もひそんで空虚なまま肯定せざるを得ないような、そんなふうであった若いわたしが、はじめて背を向けることのできる方向を見出したのだった。


もっとも「牙」を構成しているのは、要するに地方の文学好きなおじさんおばさんたちであるわけだから、父母とそれほど変らない世間そのものと言ってよい。
だが、彼らは、石田比呂志が運んできてくれた「文学魂」というものを明らかに欲し、よろこび、誇りに思っていた。
「牙」では、世間の価値は通じない。お金も、社会的地位も名誉も、何にも関係ない。ここにある歌だけが、尺度である。尺度は、歌そのものにある。石田比呂志は「先生」ではないが、この場でもっとも歌神に忠実な、熱心な、歌の徒であることを誰もが認め、彼に導かれることをよろこんだ。


運良く新人賞を受賞したとき、わたしは履歴に「石田比呂志に師事する」と書いた。そのころ、「師事」などと、古くさいことを書く若者はいなかった。
あえて書いたのは、平生酔っぱらっては頭をぽかぽか叩いたり、タメ口をきいている、そのことを申し訳ないと思ったからであった。
もっとも同じ家に住んでいても、歌を見てもらうときには、すばらしくきれいな字で清書した原稿を、きちんと正座して差しだした。歌を見てもらっているあいだじゅう、正座しつづけた。それは、折り目筋目というものである。
「師事」も、そんな気持で記した。昨今の若い人々は誰も彼も当然のように誰々に「師事」と書いているが、あれはどういう気持で書いているのだろう。


わたしは、「牙」で歌を一から学び、さまざまなことを学んだが、もっとも大事なものは創作の土壌としての「文学魂」であったと思う。
お追従をしたり、つけとどけに下心を隠したり、勢力のあるほうにたちまち靡いてみたり、そんな世間的通俗的人間心理とは、まったく別のありようの世界がある。そう信じられることは、わたしにとって生きてゆく勇気を与えられることであった。


「悪い血を一度飲んだら、なかなか良い血は受けつけない」と、石田比呂志がしばしば言っていたことを思い出す。
それから後さまざまな先達に出会ったが、わたしの最初の出発を、あれは「悪い血」であったと悔やんだことは一度もない。
後に出会ったものは、すべてこの最初の出発を強めてくれるものであった。このことを何度感謝したか知れない。
わたしにもし、どこか良いとりどころがあるとすれば、それはすべてこれらの先達に学んだものばかりである。わたし自身のものなど何にもない。


それにも関わらず、わたしはわたしである。


古人の糟糠を舐むるなかれ、という語がある。古人どころか、目の前にいる歌人だの仲間内だのが目標になってしまってはおしまいだろう。それを口にするのはおべんちゃらだと知らねばならない。


谷川健一氏が、ある祝賀パーティの返礼の辞に、自分は独学だ、野伏せり夜盗の精神でやってきた、と言われた。学問とは本来そういうものだ、そのときにこそ学問は生きている、と言われた。
「文学魂」は、野伏せり夜盗の精神にこそやどる。


歌壇全体が、「自国利益誘導」を当然のようにするようになったのはいつ頃からだっただろう。
歌に対して「フェア」でなければならないと思わなくなったのは、いつの頃からだったか。
誰も彼もが「先生」になったのは、これは覚えているが、一九八〇年代後半のカルチャー教室ブームのとき以来である。結社を構成する意識も、それに従ってしだいに変わっていった。


歌壇なんて中央も地方も、それ自体が俗世間の一部なのだから、いっそう程度がひどくなったってしようがないようなものだが、悲しむべきは「文学魂」の衰微である。昨今の「牙」も例外ではない。


お茶やお花や書の世界と同じように、「先生」を頂点としたピラミッド型をつくって椅子の確保に汲々としたり、カラオケ精神でマイクを渡しあって仲良しクラブをもくろんだり、そういうことは「文学魂」とはいっさい関係がない。


わたしだって、つねに迷う。保身をはかる臆病も、舌なめずりをする安楽をしたい気持も、わかる。世に抗わず、うまく乗っかりでもすれば、それは、その一身は栄えるかもしれない。


しかし、いつの時代にも若い人々がなお持ち続けている、「青い火花」(すなわち〈美〉である)をつかみたいというような、かなえられそうにもない、しかしやむにやまれない、無償の、つよい願望は、どうなるのか。
彼らをおのれが汚辱に引きずりこむのか。


たとえ身近に若い人々がおらずとも、人としての責任といったものがある。それを、天は見ているだろう。


                                   (『牙』2008.12)