此身一つもわがものならぬ――白蓮と武子

北九州市立文学館第五回特別企画展

 柳原白蓮(菀子)については、「筑紫の女王」と呼ばれた伊藤伝右衛門との結婚生活とのちの宮崎竜介との恋愛・出奔が語りぐさになっているが、この房子宛書簡*は、それ以前の若い菀子が思いをるると綴った貴重な告白である。


 清水谷房子は、旧宇和島藩松根家の出で俳人松根東洋城の妹、伊予の清水谷巌に嫁ぎ、萩に転出した。房子の母の姉が柳原家に嫁いでおり、菀子の従姉妹にあたる。


 書簡には封筒がなく年月日不明だが、「謹賀新年」という書き出しと文中の「私はもう今年二十四」とあるところから、おそらく明治四十一年年頭に書かれたものと推測される。菀子は、明治三十八年北小路資武と離婚して以来、柳原家の養母初子の隠居所に幽閉の身となっていた。離婚は菀子の望んだもので、「恥しい出もどりの身」も少しもつらくはないと、この書簡に告白する。


 文面から、前年末、房子の夫の紹介で「菊地さん」と見合いをし、菀子はいくらか気乗りがしていた様子がうかがわれる。新しい日々が開けるかも知れない、そういった淡い期待がこの長い文面にひそかにこめられている。しかし、いくら相手が気に入っても、女の方から意思表示することはできない。


「女といふものはつまらないものですね どうせ売物だから買ふ方に不足が有れば知らず売る方には不足を云ふものでない 男が女を蹴る事は有つても女が男をける事は我まゝで有ると云はれる」「ほんとうになぜ女は弱い者と定つてるのでせう」。華族に生まれたがゆえに、女に生まれたがゆえに、自分の人生を自分で思うように選ぶことのできない口惜しさとはがゆさと憂わしさとを、菀子は吐露する。


 「菊地さん」との縁談は、はかなく消えたようである。この年、姉の取りなしで東洋英和女学校に入学し、三年後卒業の四月、伊藤伝右衛門のもとに嫁いだのであった。



  何ものももたらぬものを女とや此身一つもわがものならぬ


                               大正四年刊『踏絵』



  柳原白蓮歌集『踏絵』の出版は、ロンドンに留学した夫が戻らないまま孤独な日々を送っていた九条武子のこころにつよく響いたのではなかろうか。白蓮とは遠縁で、おりおり噂も聞いていたという。子供の頃から旧派和歌を学んでいた武子は、大正五年秋、改めて新派和歌(短歌)を学ぶために、当時の司法大臣尾崎行雄(萼堂)の紹介によって佐々木信綱の竹柏会に入門した。


 この信綱宛書簡は、それから四年後、初めての歌集『金鈴』上梓の日のよろこびと感謝とを綴ったものである。見本刷りの小包が届き、開いて装幀を確かめ、自筆の題字を見るまでのこころ躍る思いの叙述は、今でも歌集を初めて出した人の気持に通じる初々しさがあろう。


 題詠中心の旧派和歌では、「自分のすべてを鏡の反影よりも正直にうつしだ」すような歌はうたえなかった。「心のやり場身の捨て場からおぼつかない煙のように立ち上つてかつ消へてゆきます幻の恨、現のあきらめ」が、「歌の広野」に救われて「真実の命」を与えられる――そういう歌の救いを武子はいまはじめて得ることができたのである。



  緋の房の襖はかたく閉されて今日もさびしく物おもへとや


  わが胸にかへらぬ人かあまりにもはかなし声もまぼろしもなき


                                大正九年刊『金鈴』



 ここにも、ままならぬ我が身の憂いと潜めた情熱を、歌に籠めるしかなかった女がいる。




北九州市立文学館第五回特別企画展 平成21年4月25日〜7月5日 資料集)



【房子宛書簡】 日本近代文学館資料叢書【第2期】文学者の手紙5『近代の女性文学者たち 鎬を削る自己実現の苦闘』博文館新社.2007.9.20 渡邊澄子・阿木津英・岩淵宏子・尾形明子・吉川豊子編 所収