時間の上を渡って−−新しい生の類型としての女のうた

「女と云ふものはつまらないものですね どうせ売物だから買ふ方に不足があれば知らず売る方には不足を云ふものでない」と、数えで二十四歳の柳原除エ子は従姉妹房子にあてた年賀状にこんな吐息のような手紙を書いた。


押しつけられた結婚から一児を置いて離婚し、「恥しい出もどりの身に自分から望んでなった」除エ子は、見合いを何度かさせられていたようだ。この房子夫婦の仲立ちによる見合いのあと、除エ子はいささか乗り気であったようだが、選ぶ自由のない「売物」としての女のなさけなさに思わず吐息を洩らさずにはいられなかったのであった。


 柳原除エ子のちの白蓮が、せつせつと手紙を綴った二〇世紀初頭から百年余り経った現在、女の生のありようはほんとうに変わった。わたしが子供のころにはまだ「出戻り」「後家」「嫁かず後家」という言葉が生きていた。除エ子の例に見るまでもなく、「売物」としての女の人生は結婚で決まった。


 しかし、たとえ「売物」であっても、「買手」は自分で選びたい、自分の生は自分で選びたい。社会に出て堂々と一人前の仕事もしたい。そういう〈あたりまえのこと〉を、社会慣習の力の支配する現実の場でも貫きたいという意欲が鬱積し、渦巻いていたのが、わたしたちの青春時代であった。



  おろかとも言ふといへども選び来し跣(はだし)のあしで踏むよろこびを



 この世に生を与えられて、自分で選べないことは山ほどある。まず、生まれる時代、国、親を選べない。人には神の与えた顔かたちや能力というものがあって、それも選べない。選べないことばかりのなかで、わずかに人の選べることがある。


 わたしは、いつのまにか二十歳前後のころから、選び方の基準といったものを自覚していた。「この生の瞬間は、二度とはやって来ない。一回限りだ」「死のそのとき振り返って、後悔するようなことはすまい」。行くべき道に思い迷ったとき、このような物差しをあてて何度も自分に問い直し、わたしは選択をした。


 選択の結果、どうなるかということはわかっていても、二度と来ないこの瞬間を生きるために、生の最後に振り返って後悔しないために、荒波に飛込むようなことをした。この二つの物差しに照らし合わせるとき、勇気も湧きあがるのだ。それでも大潮をかぶれば、溺れそうにもなる。



  冬日さす道に思へば女にて惑ひしことも祝(ほ)がざらめやも



 「売物」であるところから完全には免れていないとしても、いまの若い女の方々が、さまざまなライフ・スタイルを社会慣習からのたいした抵抗もなく選ぶことのできるようになったことは、ほんとうによろこばしいことだ。


 結婚してもいいし、しなくてもいい。子どもを産んでもいいし、産まなくても、産めなくても、それを女失格者のように非難する舅姑もいまどきいまい。バツイチ、バツニ、という言葉で、離婚も少しも恥ずかしいことではなくなったし、シングル・マザーもめずらしいことではなくなった。人々は、それを寛容に受け容れるようになった。現実場面では、まだまだ困難があるが、それでも女の(男も)ライフ・スタイルは一様ではなくなった。



  マンションと言ひなす匣(はこ)に住みつきて日日を窮すといふたのしさよ
      


  遮蔽壕(シエルター)に猫とひそみてゐるごとし夏あをぞらを夕づくひかり

 
  (たぎ)る湯の躍る真空パツクよりうなぎ解かれて白飯のうへ



 わたしはいま、マンション(mansion=大邸宅)と日本では言いならわされている狭い乱雑なワンルームで、賃貸料を支払うだけで精一杯の日々をおくっている。大金持ちになるようには神が生まれ合わせてはくれなかったので、金には執着がない。人間、どんなに努力してもかなわないこと、ということがある。


 傍にいるのは、猫である。最初の猫は、熊本で新聞広告を見て、砂糖一箱をお礼にもらってきた。なかなかの美猫で、子どものときから育てたせいか、ふと自分が産んだのではないかと錯覚するようなことがあった。それが患って亡くなったのち、野良だったこの猫と出会った。機縁さえあれば、わたしは子どもも拾って育てるだろう。


 ひとりの食事がおざなりになるとは、誰もが言う。そういうわたしの体を心配して、年上の歌仲間の一人が真空パックの鰻をおくってくれた。「これは○○さんの鰻」と思いながら、湯に躍るパックを眺めて五分間待つ。昼飯はそれだけでじゅうぶん。ほかに何にもいらない。



  白じろと雲のかかれる窓並び一つに猫と住み古るわれは



 まるで高層住宅に住んでいるように歌いなしているが、じつはここは一階である。でも、自分の今の生活を思うとき、こんな気持がする。白雲のうっすらとかかるような高層住宅の一つの窓のうちに、猫とわたしの顔が覗いているような気持がする。


 この生活は、幸福なのか? たのしそうか? 自由そうにみえるが、ほんとうはさびしいのではないか?
そう、どんな生活にも照り翳りというものがある。人が生きるとは、そういうことである。


 それより、ようやく女がライフ・スタイルを自由に選べるようになったこれからは、これまでとはまったく違った、新しい類型としての女のうたが生まれ出てこなければならないだろう。


 これまでの歴史のなかで、男にあって、女にはなかった生の類型といったものがある。俗世間の功名から離脱し、人としての生のかがやきを捕捉することを最重要事とみなし、そのことだけに力を尽して、どこまでももとめてやまない――、何千年も前から営々として積み重ねてきたそういう生の類型である。


 現代にこんな生き方をしている男は、砂中の金をさがすよりむずかしいが、それでも歴史上に生の類型として確固として存在している。


 性区分による制約の強大な障碍にはばまれて、女はしばしばその入口に立ちはしたが、あまりにも多く中途で倒れざるを得なかった。いつか、どこまでも歩みとおす強靱な足と、気宇の大きな胸郭をもった女が、かならず何人もあらわれるはずだ。
 わたしも、そうなりたい。こう思って、時間の上を渡ってあるく。次はその一端の報告である。



  目は見つつただにたのしも清涼の風なかに立つ呂(りょ)洞賓(どうひん)の図        
        


  はろばろし飛ぶたましひの見渡せる浦浦のまち水上澄みて



 呂(りょ)洞賓(どうひん)の図は、松濤美術館で見た雪村である。雪村は、明らかに才能において雪舟よりはるかに劣るけれども、一生をかたむけての執心がここまでの画業をなさしめていると思われた。


 歌には「骨董収集の趣味あらば、いかばかりか――」と詞書をつけたが、それは、これくらいの画ならばわたしの部屋に置いて毎日眺めたいなと思ったからである。雪舟の画などはたとえくれてやると言われても、とてものこと、わたしの部屋などには置いておけない。自分が圧倒されて押しつぶされて、きっと息も絶え絶えになるだろう。所蔵するにも、自分に似つかわしい程度というものがある。


 それにしても、雪舟はみごとであった。図版ではわからなかった。雪舟は、たしか四十歳近くになって中国大陸に渡ったはずである。昔の四十歳は老翁だが、その飽くなき探究の一途さにうたれないではいない。


 彼は、物体を描くのではなく、やがて空気を描くようになっていくが、水のうるおいとその上を何層にも覆う空気の厚みとを、あの最晩年の「天の橋立図」に達成しているのを見て、絶語した。




              (『短歌』2009.6 歌引用はすべて阿木津英第五歌集『巌のちから』より)